「あなたへの社会構成主義」 (ケネス・J・ガーゲン著 2004年 ナカニシヤ出版)


  ≪はじめに≫

  キャリアカウンセリング型組織開発®は「社会構成主義」を前提として構成されています。「社会構成主義」をしっかり理解することによって、「対話型組織開発」「経験代謝」「ブリーフセラピー」等についての理解がより深まりますし、「経営組織論」にも新たな見方を加えることが出来ます。その基本理解の為に、ケネス・J・ガーゲンの「あなたへの社会構成主義」を紹介します。

「あなたへの社会構成主義」からキャリアカウンセリング型組織開発®の理解に必要な社会構成主義の概念を確認していきます。


 ≪社会構成主義と本質主義について》

 社会構成主義を理解する為には、これまでの近代モダン主義がどのような前提で展開されてきたかを概念的に把握することが大切になります。社会構成主義はポストモダンという概念から出てきています。それに対するモダンは近代思想として、自然科学にを基本とした本質主義(※)が基本概念になります。一方で、それぞれを2項対立と捉えて、「社会は対話だけで成り立っている訳でないので、社会構成主義は正しくない」または、「社会は本質主義による全体性の把握を伴わないから、本質主義は過去の概念である」というような主張も見かけますが、我々が認知している社会はあくまでひとつであり、ガーゲンが主張しているように、社会構成主義は本質主義を否定している訳ではなく、この2項は社会の把握の仕方であって、現実的にはこれらは共存しています。

 この二つを次のように概念的に把握してみると、

 社会構成主義(ポストモダン主義・全体性《システム論》・多声性   ・関係性・対話型・動的分析・解釈主義・相対的事実)  

 本質主義  ( モダン主義  ・細分化《原因の追求》・唯一の解・唯一性・診断型・静的分析・実証主義・客観的事実)

また、上記の概念からそれぞれのコミュニケーションについて、社会構成主義は対話・統合・創発が中心に、本質主義は批評・批判・要素分解による分断が中心になると言えます。それぞれは独立している訳では無く、本質主義は社会構成主義の概念をそぎ落とし、環境を固定化する事により客観的な事実を捉えているという見方がになります。反面、本質主義は社会構成主義の対話・文脈を成り立たたせている概念だという事になります。

(ex ここでは日本語で記述していますが、これは本質主義的に決められた一つの概念です。社会構成主義の基礎をなす対話には、その時点での本質主義的に共通認識された言語が必要になります。)

  そのような意味においては、社会構成主義は物事の流れをみる見方、本質主義はある一時点の状態を把握する見方であるとも言えると考えています。

 それぞれの概念を考える一つの例として鎌倉幕府の成立の年号という客観的な事実を考えてみましょう。昔は1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命された年を持って鎌倉幕府の成立とされていて、それを試験でも正解とされていました。しかし、現在ではそれは形式的な事実のみであって正しくないとして、諸国に守護・地頭をおいた1185年が有力視されているとのことです。それでは、過去に鎌倉幕府の成立の年号が試験に出され、その正答によって紙一重の試験結果で現在の学歴・社会的地位が維持されている人がいたとしたら、それらは本質的な事実なのかという疑問になります。

 本質主義的な捉え方はあくまである特定の時点における対話による幅広い合意によって形成されています。本質主義の立場からは上記のような結果は許されべからずの事態とも言えますが、社会構成主義は立場ではその時々の対話の集積によりその時の事実や社会合意は構成され変化してゆくものと考えるので、このような事は当然起こりうる事象ですし、その結果に基づく現在の学歴・地位も現在の社会において対話の構成の中で認められていれば、それで問題が無い訳と捉える訳です。そう考えると現実の世の中は社会構成主義的に思えます。

 それでは、もうひとつ「2つのリンゴが出会う例」を考えてみましょう。

 ひとつのリンゴは、地球の中心軸に向かって秒速20cmで回転し、秒速5㎝で他方のリンゴに向かって進んでいて、その地球上での重さは400gです。他方は、完全に静止してはいますが、その重心位置は地平面に対して15度傾いて静止しておりその地球上での重さは300gである。これら2つのリンゴが出会うとどうなるでしょうか?

1.リンゴは2つになる。

2.2つのリンゴの総重量は700gになる。

3.2つのリンゴは反発し、それぞれのスピードで離れてゆく(正確な答えがわからないので、以下計算はしません)

4.それぞれのリンゴは秒速何センチかで回転を行う。

5.衝突によりリンゴの皮が摩擦熱を発生し、一部分の物質が熱に変化する。

6.ぶつかった個所が変色し、食べる場合の品質が落ちる。

7.ぶつかった個所変色により、2つのりんごは市場に出荷できなくなる、

 等々の結果が想定されます。結果として、多分その時々の対話の中で正しいとされる本質主義的な客観的事実が構成されますが、選ばれなかった事象が取り上げられなかったからといって、発生していない訳ではありません。

 仮に対話の中で、2の「ふたつのリンゴは静止させられ、足し合わせた重量が700gです」という会話が客観的事実として成立したとしましょう。その時にさて、あなたはその客観的事実であるリンゴに700gの重さをもたらしている重力と言う概念について、本質主義的な説明ができるのでしょうかという疑問点も出てきます。その重力についてWebで検索していた時以下のような文章と出会いました。「これまですべての物質の元であると考えられてきた原子は、実は宇宙のたった4%に過ぎない。宇宙の大部分は「暗黒物質」や「暗黒エネルギー」など、まだ正体のわかっていないものでできていることが明らかになりました。」

 つまり我々は、社会構成主義的な対話により、ある特定の時点での本質主義的な解釈として客観的事実を創造し続けていますが、それが時間の流れの中で次の対話によって、その本質主義的な客観事実が変化する可能性があることを社会構成主義という概念は表現しているのだと思います。

 

(※本質主義(専門家モデル)

  ・専門家が専門知識に基づいて適切な判断をする事

  ・「問題」には、必ず本質的な原因があるという事

  ・専門家であれば、本質的な原因を探り出せること

 物語としてのケア ━ ナラティヴ・アプローチの世界へ 野口裕二著 株式会社医学書院 発行 2002年6月より)

 物事に関する関わり方の視点で捉えて見ると、本質主義的な関りとは、基本的には物事の中に答えがあるとか、周囲との関係性において答えがあると仮定することです。社会構成主義的な関りとは、物事やその周囲との関わりにそもそも課題などが存在せず、観察者の自身の認知・発言や周囲との対話によって課題(軋轢)という形が発生していると捉えることです。

 但し、以下で考察を進めているように本質主義と社会構成主義は併存していると捉えていますので、一般的には特定の時点における本質主義的な解釈が求めていることが多いこともあり、それぞれを意識しながら、解釈に向けての関りを進めてゆくことになります。

(意識マトリックス理論で捉えた場合はこのようになります。)


《社会構成主義へのイントロダクション》

 次は社会構成主義をおりなす「ナラティヴは社会を構成する」?というそもそもの考え方についてです。

 社会構成主義は、ポストモダン主義・全体性(一般システム論)・多声性・対話型・動的分析・解釈主義等で表現されるのに対して、近代における価値観である客観主義は、モダン主義・細分化・唯一の答え・診断型・静的分析・実証主義という形で表現できると思います。いずれにしても、どちらが正しいとか、どちらが優れているという事ではないという認識は大切です。また、そういう意味でやはりこの二つは共存するものだとも言えます。

 ま社会構成主義は考え方の基軸として、社会を個人の発する言葉(ナラティヴ)とその個々の認知で構成をされた集合体として捉えて考えます。 そして、広義の組織(家庭やエリアコミュティ等も含む)も同じく社会の下部システムとして、その構成員の発する言葉とその認知で構成された集合体と捉えます。

しかし、実際には実態のある社会について「ナラティヴ(会話)」で構成されているというと違和感を覚える方もいらっしゃると思います。しかし、例えば、現在世界を覆っている「市場原理主義」や「株主資本主義」についてはどうでしょう。 

 多くの人は、「アダム・スミス」の「(神の)見えざる手」により市場が調和するという市場原則を思い出されるでしょう。また、弱肉強食の競争原理を想起される方がいるかも知れません。

ところでその出典である「諸国民の富(国富論)」について、多くの方は私と同様に教科書やマスコミ等から発信されるディスコースとして認知・把握しているのではないでしょうか。それではその国富論で「見えざる手(Invisible Hand)」は、はたして何回?出てくるのでしょう。当然、市場原理の原則に関わる話題なので、再々出てくるように思われがちですが、実際はわずか1回しか出てきません。(参考はこちら)また、アダム・スミスは自然摂理として弱肉強食を推奨していたのでしょうか。おそらく違うようにも思われます。アダム・スミスは道徳哲学者であり、国富論の前は「道徳感情論」を著して、道徳の市民による共有性について論じています。また、「国富論」な中では「自由放任」という事も言っていません。また、日本では「見えざる手(invisible hand)をなぜか「神の見えざる手」と訳します。なぜ「神の」なのでしょうか。「道徳感情論」に基づいて「神の」道徳に基づいた公明正大な競争をイメージさせる為でしょうか?神の絶対的な正しさをイメージさせる為でしょうか。

一方で、現在、現実として「自由放任」市場原理主義は全世界を覆い、市民の間では大きな混乱も見られます。経済学理論の公準でしかない「経済人」が、あたかも人類共通の価値観のように、人々に「利己心」のみを煽っているようにも感じられます。

(公準:理論が構築される為の証明できない仮定)

また逆に、「新古典派」経済学者のフリードマンは、著書「選択の自由」の中で、市場への国による不適切な介入(例えば2020年のGoToなんとか)を避けるべきだと主張していますが、国の機能に対しての完全な否定や弱者や企業の外部不経済について関心がないわけでないという事も示しています。こう考えると、結局、我々自身も何かに刷り込まれた「ナラティヴ」における関係性の中に存在(活動)しているようにも思われます。

以上のような話もここでのナラティヴですが、社会についてこのような捉え方をしてみると、あたかも社会がそれぞれの「ナラティヴ」を基に統合され構成されているとしても、少し違和感がなくなるのではないでしょうか。

(この文章は2019年秋頃のものですが、半年後の2020年春になり、新型コロナウイルスの影響で「市場原理主義」「グローバリズム」が雲散霧消してしまったようにも見えていることも、興味深い点です。国境は閉鎖され国際間の人的移動は、一時期完全に止まってしまっています。また、新型コロナが収まれば、これらの社会概念は復活するのでしょうか。

これらの事実については、いつどこで誰からそのような認識を我々が得たのか、「あなたへの社会構成主義」はその点に関しても多くの示唆を含んでいます。 

 実際は社会構成主義と本質主義は見方の違いであり、現実社会では並立していると認識しています。この点について、ディスコースのひとつとしての「原発の安全神話」というものが、結果の事実として原発事故が起こってしまった現在、どういうことであったのかということをここでの視点で考察してみます。

 事故の遠因として、管理する側から「原発の安全神話」(本質主義的)が発信され、国民の間でなんとなくディスコースが成立してゆき、巡り巡って原発を管理する国や電力会社もそのディスコースに影響され(円環的反応)、安心しきってしまった面(社会構成主義的)もあるのではないでしょうか。もし、国民に逆に、その時々の原発の危険性やリスク(本質主義的)が幅広く発信され、「原発危険神話」のディスコースがより強く成立(社会構成主義的)していれば、国や電力会社の対応(社会構成主義的)も変わり、巨大津波の危険性が認識された時点でなんらかの対策が積極的に取られていた(本質主義的)かも知れません。そう意味からも社会を覆うナラティヴが実際の現実として影響するのかどうかについて、考えさせられる面があります。また、この意味においてはマスコミというものの影響力(社会構成主義的)は、やはり大きなものがあるとも言えます。また、災害(本質主義的)において管理者側から発せられた「想定外」(社会構成主義的)という言葉はどのような意味をもっているのでしょうか。「想定」とは、ある組織で構成されたディスコースの結果(社会構成主義的)でしかありません。しかし、地震や津波は現実(本質主義的)です。そういう意味では、家や堤防や原発(本質主義的)というものは、現実から構成されたものではなく、社会的な対話の結果で構成されたものが実体として存在している(社会構成主義的)と捉える事も出来ます。それではなぜ「想定外」という事が起こるのでしょうか。社会が社会構成主義を前提に動いていれば、新しい危機の察知は多声性の中で捉えられ、それまでの「想定」と統合され、新しい「想定」のディスコースが常に新しく形成(社会構成主義的)されることにより、危機対応(本質主義的)が出来ていた可能性もあります。逆に言えば、「想定外」が起こるのは、社会が今までの「実証主義」の教育を基本に「本質主義」の考え方で動いていることがその要因になります。世の中には固定された正しい答えがあり、それは分析によって正しく決定されるという「実証主義」の思想が、ある時点の(社会構成主義的に構成された)「想定」を唯一の正解として固定しまう(本質主義的)ことから、「想定」という概念が形成(社会構成主義的)されます。しかも、厄介なことに「想定外」の客観的現実(本質主義的)が起こった時点でそれは「想定外」ではなくなってしまいます。

 このように現実の世の中は、社会構成主義的な対話と本質主義的な結論・定義が絡まりながら構成されているように思われます。

ただ、本質主義的な理解は学校教育にて一般的ですが、社会構成主義的な理解はまだ一般的でないので、キャリアカウンセリング型組織開発®を理解する為にも認知してゆく必要があると考えます。

 

以下、「キャリアカウンセリング型組織開発®」の実践を目指す為に必要な社会構成主義の知識を、「あなたへの社会構成主義」からその概略を確認します。

客観的な理解の為に、それぞれの章の関連性があるポイントをそのまま抜き出して、整理する形にしています。正しい理解の為には、是非実際に原著を一読して詳細な内容の確認をして頂ければと思います。「国富論」の解釈ように、原典をベースとした理論の確認が正確な理解を助けます。

また、本書において理解しにくいと感じるいくつかの点はカーゲンが本書内でも述べているように、あくまで世界の中心を欧米のキリスト教的価値観や「自己」感をもとに書かれている言うことも、理解の為には大切な点です。

また、モダンな時代からポスト移行モダンへの(興味があれば、エントロピーの法則とポストモダンの項目も参照下さい)という大きな流れも影響をしているように感じます。

このような思想の流れは、モダン時代の真っ只中の約100年前に示されたM.P.フォレットの思想の中にも、既に共通点が見られます。

対話型組織開発・ナラティブセラピー・ブリーフセラピー・経験代謝・経営組織論・マーケティングにおけるグループダイナミックス等をより良く理解する為には、社会構成主義の入門書である「あなたへの社会構成主義」の一読をお薦めしたいと思います。


「あなたへの社会構成主義」

(ケネス・J・ガーゲン著 東村知子訳 ナカニシヤ出版 2004年)より、抜粋。

 


  各章内の大項目を◆にて、中項目を□、小項目を・の後に示しています。その中でポイントと考えられる部分で本文を抜粋する形でまとめています。追加のコメントについては

 〗の中に示すようにしています。

 

 

【プロローグ】 

今、世界中で刺激的な対話が始まっています。この対話は非常に重要な意味を持っているように思われます。それは、思想や実践の大きな転換期にも匹敵します。

この本は始まりであって、決して「最終的な結論でない」のです。

人と人とが関係を結ぶという事は、共同で未来を構築することだからです。

 

次にここでの目的を踏まえ、まずは最終章の【第九章】批判に答える 「経験や心的状態に関する疑問」と「何がなすに値するのか━関与に対する問い」を確認します。〗

 

【第九章】批判に答える 

◆経験や心的状態に関する疑問

私たちは、「愛」「寂しさ」「喜び」のような用語を心の中の状態や出来事、経験を指すものであるかのように用いています。

こうした心の状態や経験の存在に対して、社会構成主義は不穏な疑問の影を投げかけているように見えます。第一章では、知識は個人の頭()の中にあるという伝統的な考え方に対するいくつかの批判を提示しました何かを「知っている」「信じている」「覚えている」と誰かに対して言うことは、いったいどのような意味をもつのでしょうか。続く第二章では、精神衛生の専門家によって、心の世界がいかに構成されているか、そして彼らが用いる心の機能不全に関する語彙がどんな有害な影響をもたらしうるのかを検討しました。第三章と第四章では、心の世界が言語、特にメタファーにおいていかに構成されているのか、そしてそうした言語が時代や文化によってどう変わるかを示しました。第五章では、心の状態なるものが存在するという思想に支えられた個人主義のイデオロギーに対して異議を唱え、その代替案としての見方を打ち出しました。社会構成主義は、「心」の中の信念なるもののよりどころをことごとく破壊するだけでなく、政治的・道徳的背景をもつすべての語彙に対して疑いをつきつけているように見えます。

社会構成主義は、心理学的な言説をすべて排除しようとしている訳ではありません。私たちに求められているのは、心の伝統をきちんと評価すると同時に、その限界に対して敏感になり、他の構成を探ってゆくことです。

 

◆何がなすに値するのか━関与に対する問い

 社会構成主義は更にこう付け加えます。客観的事実や道徳があると信じるよりも、自分たちが「真剣なゲーム」をしていると考えた方が、私たちはもっと幸せになれるのではないでしょうか。なぜなら、何かに対する深い関与は、ある文化や歴史に限定されたものであり、そうした伝統の表れであると理解できるようになれば、私たちは他者をすぐに排除しようとはしないはずだからです。自分自身を反省することによって、自らの関与の限界や、それ以外の可能性をきちんと評価できるようになるでしょう。社会構成主義は、「あきらめて何もしない」のではなく、人間関係がもっと大きな可能性に対して自らをオープンにしておこうと人々によびかけているのです。

上記の解説を踏まえて、改めて第一章からみてゆきます〗



 【第一章】 伝統的人間観の行き詰まり

 〖現代の科学的常識(モダン主義)やそれらがもたらせる混乱や危機的状況についての批判がこの章では示されます〗 

 西洋の伝統的信念に基づいて、すべての人々の為に作られたはずの、科学、宗教、政府、教育などの制度もまた機能不全に陥っているだけでなく、弾圧や環境破壊、武力衝突さえ生み出してしまっています。

 今求められているのは、より実りある千年紀へとつながる新鮮な考えや実践です。と、すれば、私たちがしっかりとつかんでおかなければならないものは何でしょうか。何を手放すべきなのでしょうか。私たちが今なすべきことは、いったいどんな事なのでしょうか。

こうした対立と変化を背景にこの本は生まれました。第一章では暗い側面から見ていくことにします。危機に直面している伝統に焦点をあて、なぜそれほど危機的な状況に陥ってしまったのか理解しましょう。

 

【第二章】共同体による構成━事実と価値

この章では、危機的状況の中から社会構成主義の生れ出てきた経緯や基本的概念、その原則とも言える4つのテーゼが示されます。他に引用されることも多い、その部分を中心に見る事にします。〗

伝統の瓦礫の山を掘ることから始めます。批判の断片を一つ一つ吟味してゆけば、知識、心理、自己というものに対して、別の見方が出来るようになるでしょう。その新たな見方を取り巻いているのは、社会構成主義の対話です。社会構成主義の基本的な概念を押さえます。

 

◆社会構成主義の四つのテーゼ
前章では、私たちの常識を根本から揺るがす二つの批判━イデオロギー批判と文学批評━についても述べました。
 この章では新たな一歩を踏み出しました。特に、言語の共同体的基盤に重点をおく新しい言語観を導入し、二つの批判をより生産的なものへと組み立てなおしました。
 社会構成主義そのものに焦点をあてることにしましょう。

  □1.私たちが世界や自己を理解する為に用いる言葉は、「事実」によって規定されない。   

  □2.記述や説明、そしてあらゆる表現は、人々の関係から意味を与えられる

  □3.私たちは、何か記述をしたり説明したり、あるいは別の方法で表現したりする時、
     同時に、自分たちの未来をも創造している。

  □4.自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である


社会構成主義は、「自省(Reflexivity(研究者のバックボーンがその研究に与える影響を考慮する))」(━自分が持っている前提を疑問視し、「明らかだ」とされているものを疑い、現実を見る別の枠組みを受け入れ、様々な対場を考慮して物事に取り組み姿勢━)を非常に大切だと考えます。つまり「当たり前」とされている事柄が、人々に異なる可能性を見えなくさせてしまう事に対して、厳しい批判の目を向けます。私たちがもし、生き生きとした明るい未来を創造していこうとするなら、私たちがこれまで「事実」「真理」「正義」「どうしても必要なもの」として受け入れてきたものすべてを、疑う覚悟が出来ていなければなりません。だからと言って、伝統をすべて拒否してしまえというわけではありません。それらが一つの伝統に過ぎないこと(━歴史的・文化的に作り出されたものであること━)を正しく理解し、自らの伝統の言葉で、異なる伝統を理解し、認めてゆこうという提案なのです。そのためにはまず、異なる伝統間に共通の基盤を形成するような「対話」を生み出していかなければなりません。
この4つのテーゼはそれほど難しいものではありません。

   しかし、そこには深い意味が秘められています。

 

3と4について、SDG'sも含めた現代の課題に対する「現状と今後の未来」を考えると意味深いテーゼだと思います。単なる批判だけでは物事は単純には解決しないことも、示唆してくれていると感じます。〗

 

◆科学的知識の社会的構成

  □何が事実であるかは科学者コミュニティによって決定される
□「新しい」科学的技術は複雑に入り組んだ関係性の産物である

 

◆本章を振り返って

 科学的な研究(実証論的方法・厳密な測定・統計的分析等)がなくなってしまうことを望んでいる訳ではありません。何よりも大切だと思うのは「真理を確立する」ことを目的としない研究の持つ価値や可能性について、もっと議論してゆくことです。

  どうすれば、私たちは共に未来を作り上げたいと願うようになるのでしょうか。

言語によって、いかに抑圧や不正が維持されるかという例を見てきました。批判的な反省を進めてゆくことによって、再構成の可能性が開かれます。

 

【第三章】対話の力━明日を創る試み

社会構成主義が推し進めようとしている問いの立て方に目を向けます。具体的には、真理、自己、善に関して広く行き渡っている常識を再考します。科学や日常生活におけるありふれた言説を見直すことで、私たちはこれらの常識的な信念から解き放たれる事になるでしょう。このような批判的な考察を通して、私たちは常識の呪縛から逃れ、別の考え方を積極的に打ち立てる事ができるのです。

 私がここで目指したのは、様々な分析の限界や不完全性を明らかにすることです。これらの分析を、客観的な真実の報告としてではなく、私たちが世界を見る「枠組み」や「レンズ」の一つとして理解するならば、それは私たちにとって非常に有益なものとなるでしょう。

 

  【第四章】社会構成主義の地平

 社会構成主義の立場から社会生活を探求する方法について考えます。但し、従来の学問の伝統をすべて捨て去ろうというのではなく、社会構成主義を通して、人間科学における問いが持つ可能性をふくらませることが目的です。すでに述べたように、社会構成主義は伝統と批判の共存を可能にする新しい方法を作り出そうとするものなのです。

 

 ◆本章を振り返って

 感情は、服の着方や、ゲームやダンスにおける動きと同じように、行為のレパートリーなのです。そして、私たちがそれをいかに遂行するかによって、私たちの人生は、充実したものになったり空虚なものになったりするのです。

 

【第五章】「個人主義的な自己」から「関係性の自己」へ

 個人的主義な「自己」という強い信念に代わる代替案を模索します。すなわち、個人主義的な「自己」という概念を、「関係性」という概念で置き換える事を主張します

・生成的理論

 慣習的な理解のあり方に挑み、新たな意味や行為の世界を切り開いてくれるような、世界についての説明

 

 ◆本章を振り返って 

 私はこの「関係性の中の自己」という考え方に出会った時、非常に興奮しました。西洋文化に属する私たちが、今自ら自分自身についての概念化の仕方を変えようとしているのだという感覚が、私をそんなに興奮させたのだと思います。それはまるで、第二の啓蒙主義に加わっているような感覚です。

 私たちにとって必要なのは、関係の概念を広げ、非社会的なもの(━特に自然環境━)も含めたものにする事です。意味を、環境の中で人間が生み出すものとして再構築するような、新たなメタファー、ナラティヴ、イメージなどを作り上げてゆくことが重要です。

 

もともと少なからず日本人は村社会(━関係性━)の中で生きています。また、八百万の神を自然の中にも意識します。正月は神前に参り、お盆や仏教、クリスマスにハロウィン、ショッピングセンターに神棚は用意されていませんが、イスラム教徒用の礼拝場が用意されていたり、精神的多様性(を受け入れて?)の中に生きています。そういう意味で「関係性の中の自己」という概念は、日本人の中ではもともとある概念なのかも知れません。〗

 【第六~八章】

本書では理論と実践が収束していきます。社会構成主義の理論と社会的な実践はひとつになるのです。

続き第6章~第8章の3章では、社会の現状と、新たな未来への可能性についての考察をします。

 

【第六章】理論と実践(1)━対話の持つ可能性

 人間理解についての理論的考察からいったん離れて、対立や争いの解消を目指す実践的な対話について考えます。特に、社会的疎外への代替案となりうる「変化を生み出す対話」を構成するいくつかの要素を詳しく検討します。

 

◆変化力のある対話に向けて━第三のアプローチ 

□非難から関係の中の責任へ

〖この部分が本書で一番示唆に富んでいると感じています。〗
 個人を非難する対話には、他にはない特徴があります。つまり、私たちは他者の欠点を見つける事によって、自分と他者の間に壁を作り出します。私たちは、他者を非難することによって、自分はすべてを知っている正義の立場にあり、他者は私の判決を待つ欠点を持った存在であることを暗に示しています。こうして、私たちは他者との間に大きな距離を生み出し、時に他者を敵に回すことになります。
 対立する集団同士の場合には、問題はより一層深刻になります。お互いに相手が悪いと主張しあうからです。


□他者を肯定すること
自らの感情を表出したり、ライフストーリーを語ったりすることと、他者に肯定されているという感覚を得る事はまた別の話です、意味は関係性の中から生まれるものであり、個人の自己表出は、他者に補完されない限り意味を獲得する事は出来ません。ですから、あなたが私の言っていることを正しく理解できなかったり、あなたが私のストーリーをだいなしにしていると私が感じたりしたならば、私は本当の意味で何も表出できていないことになります。この場合、あなたにとって「肯定する」ということは、私の表出の中に、同意したり指示したりできるような何かを見出だすということです。このように、相手を「肯定する」ことを重視する考え方は、ある意味、個人主義の伝統や、思想や感情を個人の所有物とみなす信念とも関係があります。私の表出を肯定する事は、私の主観を認め、それを尊重する事を意味します。
 好奇心を持つことは、何より肯定のしるしです。セラピストのアンダーソン(Harline Anderson)は、「聞く」の中で肯定する事の重要性について次のように述べています。「セラピストが、他の人のイデオロギー的なものに対して心を広く持ち、真摯な態度やマナーを持って介入した時にはじめて、セラピーは変化させる力を持つことになる。この態度やマナーには、相手に敬意を示し、謙虚さを忘れず、クライアントの話に耳を傾ける価値があると信じる事も含まれる。」

 

□新しい世界の協働的創造
対立しあう人々が、まだどちらの側にも実現していない「現実」の未来図に加わる瞬間━対話における創造的な瞬間━が必要なのです。
 協働の現実へ向かう為の最もシンプルな方法は、共通の「大義(cause)を見出だす事です。社会心理学では、こうしたことを「上位目標(superordinate goals)」という言葉で説明してきました。

 【第七章】理論と実践(2)━心理療法・組織変革・教育・研究

 社会構成主義にもとづく最新の実践について述べます。具体的には、臨床心理、組織管理、教育、研究者による情報発信の四つを取り上げ、それぞれにおいて、人々の関係を調和させ明るい未来を創造する新たな可能性を探ってゆきます。

 

◆社会的構成としてのセラピー 

社会構成主義の立場から見ると、このように何とか「科学」たりえようとする壮大な努力は、間違った方向に向かっており、実際に多くの害をもたらしています。もし、彼が病気と定義されなければ、治療以外の実践が動き始めるはずです。
 社会構成主義は、医学モデルに立つこのようなセラピーのアプローチに対して、真正面から挑戦します。なぜクライアントは「問題を抱えている」と見なさなければならないのでしょうか。他にもっと良い道はないのでしょうか。また、それぞれのセラピストは、どういう根拠に基づいて「この理解の仕方の方が優れている」などと主張するのでしょうか。本当に中立なセラピストなど、果たして存在するのでしょうか。
 以上のような社会構成主義からの批判に基づいて、新たな治療法のアプローチが生まれ始めています。こうしたアプローチは一般に次のような特徴をもっています。
・意味に焦点をあてる
  伝統的なセラピーでは、「原因」と「結果」に焦点があてられます。
  ここで強調しておきたいのは、私たちが自分たちの人生を切り開いていくために、どのような意味を構成しているのかという点です。
    クライアントは「問題の原因」にとらわれず、自由に話をする事によって、より望ましい構成の在り方を見出だすことが出来ます。このように、その人の構成の仕方を変化させることが大切なのです。
・セラピーは共同構成である
   
社会構成主義の立場に立つセラピストは「無知のスタンス」すなわち専門家から見た現実を離れ、クライアント自身が持っている意味のバリエーションに興味を持って耳を傾けようとするスタンスをとらなければなりません。セラピストの仕事は、クライアントを「知へと導く」ことではなく、クライアント(あるいはその家族)と協力して、生成的な対話を生み出して行くことなのです。治療という関係においても、共同の意味生成が行わなければなりません。

 ・関係に焦点をあてる。

   一般にセラピーにおいては、個人の心の状態に強い関心が向けられます。しかし、社会構成主義のセラピーでは。「関係」が「心」に取って代わります。ある関係に入り込むことによってはじめて、「問題が問題としての意味を与えられたり、ある行動パターンが合理的なもの、あるいは望ましいものとなったりするからです。従って、個人が参加している関係性のネットワークを探求することが最も重要になります。

  家族療法では、患者はたまたま、家族と他のメンバーによって、その家族関係にはらまれた問題のスケープゴートに選ばれただけではないかと言う訳です。

・価値に対して敏感になる
 社会構成主義では、いかなる治療的関係も価値中立的ではありえないと認識されています。

 

これまで述べてきたように、四つの基本的な方向性はありますが、社会構成主義的セラピーの実践の可能性は実に多様です。


□解決中心療法━ブリーフ・エンカウンターの力
 社会構成主義は、こうした(非常にリアルで、時にはひどい苦しみをもたらす様な問題)現実が、実は社会的に構成されたものである。つまり、問題は私たちから独立した現実として「外界」に存在しているわけではなく、私たちが現実について取り決めを行う中で「問題」となっていくのだという事を、私たちに思い起こさせてくれます。
 社会構成主義のセラピストは、治療的な会話により焦点を絞った方法を模索しています。
 実践の一つは、解決中心療法と言われるものです。クライアントが自分の問題そのものについて語るよりも、その問題の解決について語ることの方が有効な場合が多いと主張します。
 「奇跡の問い
 「目標への道のり(on-track)の言語
 「見積もりの問い」 など
 「解決中心療法」は「短期療法(ブリーフセラピー)」と呼ばれることもあります。

□ナラティヴ・セラピー
 社会構成主義の立場に立つ多くのセラピストにとって、「ナラティヴ(語り)」という概念は非常に重要です。
 クライアントの苦しみもまた、その人のナラティヴから切り離しては考えられません。つまり、クライアントが自分の人生を語り直し、人生の中の辛い出来事を新しく概念化し直すのを可能にするナラティヴこそが必要なのです。
 革新的な方法の一つは、「問題の外在化(problem externalization)」です。問題をその人の「自己」から切り離して考えられるようになることが、語り直しのへの重要な一歩となるのです。
 ナラティヴが行為を決定すると考えるのではなく、むしろ、ナラティヴ自体を一つの行為の在り方として考えた方がいいように思われます。

□多声的な共同実践━複数の意味がもたらす実り
 ★注目する三つめは「多声性」です。幅広い新たな選択肢を生み出す事です。たくさんの「声」が身近にあることで、様々な行為の可能性がクライアントの前に開かれます。私たちは、「たったひとつの真実」ではなく、「たくさんある真実の一つ」を見出だすのです。
 セラピストはまず、個人の中に「多様性」を生み出そうとします。「内化された他者」の声は、そのバリエーションのひとつです。
 「多声性」は、会話に参加する人を増やすことによっても生まれます。こうした実践の中で最も一般的なのは、「リフレクティング・チーム」です。家族は、自分たちや家族の他のメンバー、あるいは家族が抱えている問題などの「現実」を、共同で構成します。リフレクティング・チームは、専門家としての権威にしがみつくのではなく、対話を促し、有効な意味を探し続けます。「セラピーは、クライアントとセラピストの双方に焦点をあてたものになる……治療システムのいかなる瞬間においても……お互いがしっくりくると感じられることが重視される」のです。

 

◆組織における意味の創造

  「センスメーキング・イン・オーガニゼーション」という本の中でつぎのように述べています。組織行動とセンスメーキング(ものごとがわかること)のプロセスは実は同じものなのだ。組織行動とは、秩序を維持し、例外を正し、単純化し、要素を結び付ける事である。センスメーキングもそれと同じなのである。」現実を社会的に構成するプロセスが、個人や家族だけでなく、組織にとっても非常に重要なものであると考えています。
 モーガンは、私たちの組織についての理解の仕方がメタファー的であるという事をあきらかにしました。優れた管理者は、現実を様々にイメージし、そのイメージを用いて、他者と世界について対話することが出来なければならないのです。

 

  □価値を認めようとする問い━対立から共同体へ
一般に組織の活動はダイナミックです。
社会構成主義の立場から見ると、問題は、私たちが現実について取り決めを行ってゆく上で存在するのです。「問題がある」という事に私たちが同意するから、問題が存在するのであって、いかなる状況も、「問題がある」という事も出来れば、「問題がない」という事もできるのです。
価値を認める問い(組織において)積極的に「価値を認める」にはどうすれば良いのでしょうか。そのヒントは、社会構成主義が強調するナラティヴの中に見出されます。ストーリーを人々が共有することで、そうした展望が実現可能であるという確信が生まれます。価値を認めるナラティヴは、創造的な変化の力を解き放つのです。

 

 

◆本章を振り返って

 私は長い間、伝統的な社会科学者として、ものごとを外から観察し、それをレポートする為のトレーニングを受けてきました。しかし、社会構成主義の対話を通じて、これまで自分がしてきたことが、いかに偏った狭いものであったかがわかりました。

 社会構成主義の対話は、私の日々の教育実践にも変化をもたらしました。もはやたった一つの基準で、学生を評価することなど出来ないのです。それを「進歩」とみなすのは確かに一つの構成に過ぎないかも知れません。しかし、人生を「前進するナラティヴ」としてみなすか、「地獄への道」とみなすか、と問われたら、私は迷わず前者を選ぶでしょう。

 

【第八章】理論と実践(3)━マスメディア・権力・インターネット

 社会構成主義の立場から、現代社会の状況を具体的に分析してみます。特に、発達したコミュニケーション技術や、情報、イメージ、意見、広告などの渦が、私たちの日常生活をいかに飲み込んでいくかという点に焦点をあてます。

 

◆本章を振り返って

 多くの対話の産物を盛り込みながら、あなたと対話しているところを想像して、この本を長く書き綴ってきました。

 この本がもし、あなたに、何らかの価値ある関係や、わくわくするような内なる対話をもたらすことが出来、もっともっと話したい新しい行動を起こしたい、対話を更に進めてゆきたいというふうに思ってもらえたとしたら、私はうれしく思います。



 ≪読み終えて≫

ここまで「あなたへの社会構成主義」からこのキャリアカウンセリング型組織開発に関連し、その理解に必要な部分を中心に内容の確認をしましたが、しっかりと全体を確認する為には原書を一読して、すべてを確認して頂く必要があると思います。

 

ここまでで、指摘されているような動きが突然起こったかというとそうではないと言えます。そもそも「本質主義」が前面に出る以前は、「神話」「伝説」「物語」によって人類の歴史は構成をされていました。その後も文化人類学の見地から、すでに19世紀にはイギリスの文化人類学の父と呼ばれるE・テイラー(Edward Tylor 1832-1917)が、文化を「知識・信仰・芸術・法律その他、人間が社会の成員として獲得したあらゆる能力や慣習の複合体」と規定しています。1924年には、M.P.フォレットが知識の自体の危うさを個々の経験を統合させることによって解決し、社会を安定させるという思想を表しています。また、これと同様の概念は1959C.Wright.Millsの「社会学的想像力」でも示されているように思います。

アダム・スミスは、「道徳感情論」(1759年)の中で「人間はいかに利己的であるように思えようと、他人の運命に関心を持つ何らかの原理が本性の中にあるとし、人間が他人と同じ感情を抱こうとする「共感」が、社会を形成とする前提と位置付けた。人間の社会に秩序をもたらすには、各個人が他人から見て「同感」を得られるように行動を律し、さらに社会の正義のルールを侵さないことが必要とした。」という主張は、社会構成主義という観点から理解してみると通ずる点があるように感じます。

「社会構成主義」が、改めて上記のように今まで何かモヤっとしていた疑問点に、しっかりと明るい光をあててくれます。

ガーゲンが批判する2元論的思想は、 その始まりは今から400年前のヨーロッパのルネッサンス期のフランシス・ベーコンまで遡ります。

「 古代ギリシャの世界観を排斥し、機械体系の為の原理を打ち立てたのは、フランシス・ベーコン(1564-1621, イギリスの政治家、哲学者)である。1620年に刊行された彼の『ノーヴム・オルガヌム(新機関)』は、格好の宣伝材料であった。ベーコンは、プラトン、アリストテレス、それにホメロス等の著作を議論好きの学問として、あまり顧みなかった。ギリシャの哲学者は「口数ばかり多くて中身は空っぽだ。無駄な言葉ばかりはいて、何物も生み出さないのは子供同然だ。」だとした。ベーコンはギリシャの世界観をとくと分析し、「彼らの考え方は、主張が派手な割に人間の生活を豊かにし、利益をもたらすための実験をなんら行っていない。」と、結論付けた。彼は自然を支配しようとし、物理的豊かさを求めていたのでこういう事を言ったのだと思われる。実はギリシャ人にとっては、学問は形而上学的な理由を問う事を意味していたのである。これに対してベーコンは、学問という科学は“方法”と結びついたものであるべきだと考えた。「人間生活には、新たな発見と潜在力が満ちていなくてはならない。今や、科学の真の目標は、その方法の法則化以外の何物でもない。」と人間の知性を礼賛してやまなかった。ベーコンは更に、世界を扱う為の新しい方法は整然としており、その方法とは「人間の能力により、あらゆる物事を達成できるまで無限に伸ばす事が出来る」ものだとした。そして、彼が提唱する新しい方法とは科学的方法論であり、観察するものと観察されるものを分け、“客観的知識の発展の為に中立的な立場を提供しようというものであった。ベーコンによれば、客観的知識があれば人間は、「自然界、例えば、医学や自然現象、その他すべてのことを支配することが出来る。」ということになる。」

 

これが、ガーゲンが批判している二元論の発端となります。自己と観察するものを区別し、観察するものに究極的な唯一の法則や解決策があるというその考えは、人類に大きな科学的な進歩をもたらしましたが、より解決しがたい課題も多く発生しているのは、ご存じのとおりです。

日本でも来年(2020年)からの初等教育における教育思想もすでに、20世紀型の成長社会に基づいた「みんな一緒」・「答えはひとつ」という考え方から、21世紀の成熟社会化に基づいた「ひとりずつ、それぞれ」「正しい正解はないが、それぞれの個別意見から『納得解』を導き出す」というような社会構成主義の主張とも通ずる教育指導の移行に「アクティヴ・ラーニング」として推進されようとしているようです。

  現代社会においては、「あなたへの社会構成主義」示されているような2元論的世界観での唯一の正解の探求からの社会構成から、一元論をベースとした個々の認知に基づいた「ナラティヴ」による相互承認による社会構築という大きな流れがあるのではないでしょうか。当然このような変化は、社会の大きな構成要素である「企業組織」にも変革を促し、そこでも醸成される「キャリア」自体も今後更に変化することが予想されます。

社会構成主義には、「関係中の自己」「伝統的科学定義からの脱却」「個々の自我の関係性の中での把握」「関係性というシステム概念」の考えが含まれています。

それらを再度まとめ直したのが四つのテーゼであり、上記の概念を踏まえて理解する必要があります。

 

社会構成主義の四つのテーゼ

1.私たちが世界や自己を理解する為に用いる言葉は、「事実」によって規定されない

2.記述や説明、そしてあらゆる表現は、人々の関係から意味を与えられる

3.私たちは、何か記述をしたり説明したり、あるいは別の方法で表現したりする時、同時に、自分たちの未来をも創造している

4.自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である

 

これらを含めて社会構成主義とは、一元論的世界観を展開したものだという事が言えると思います。この考え方は、「ポストモダン」とも表現されますが、この意味から「キャリアカウンセリング型組織開発」は「ポストモダン」の価値観に立ちます。

経験代謝」では、キャリアを「環境との相互作用によって、生涯を通じて個人が構築し、個人により意味づけられたもの」(JCDA)と定義づけられており、これは一元論的世界観の中で個人の認知が社会相互作用によって発生するということであり、また、個々の「経験」をナラティヴとして捉えて、クライアントのナラティヴを大切にするという点で、解決中心療法とも大きな共通点があります。また、結果としてその取り巻く組織やその上位概念である社会組織に影響を与えていこうと基本的精神においても、大きな共通点があるように感じられます。

 社会構成主義が指摘するように、個々すべてがそれぞれの見方があり、絶対的な正しさも存在しないと仮定すれば、結局自分自身の人生は、自分自身の価値観でデザインすれば良いという事になります。つまり、キャリアコンサルティングは、クライアントの経験・体験から生み出された価値観を良く聴いて、クライアントが正しいと思える方向にキャリアが向かえるようにサポートするのが肝要ではないかと思われます。

 

 一方、キャリアを取巻く組織論やマネジメント論(経営学)については、もともとは「自由競争資本主義」・「社会革命主義」に対抗すべく、別の道筋である「社会改良主義」としての側面をもっています。この視点もうまく取り入れる事によって、キャリアコンサルティングは社会構成主義が求めるような社会への関りが可能になるように思います。組織論については、M,P.フォレット主張を基礎としますが、その影響も見られる「バーナードの「経営者の役割」(1938年)から、参考に冒頭部分を引用しておきます。

「社会改造の文献において、現代の不安にふれない思想はひとつもないが、具体的な社会過程としての公式組織に論及しているものは事実上まったく見当たらない……。

……政治的分野においてみられる信条や利害の対立の多くのもの━それをスローガンで示せば、「個人主義」「集産主義」「中央集権」「自由放任」「社会主義」「国家主義」「ファシズム」「自由」「集団編成」「規律」である━及び産業の分野におけるある種の無秩序は、具体的な状況における個々人の社会的な立場人格的な立場についての考え方を、直観的に、その他の方法で、いずれによっても調和しえないためである。

  社会構成主義に基づいたキャリアコンサルティングを対話型組織開発にて展開すれば、社会全体の問題の解決の糸口として個々人の状況と社会全体の調和を進めるられる可能性があるのではないかと考えています。

 

(参考)

あなたへの社会構成主義 ケネス・J・ガーゲン著 東村知子訳 ナカニシヤ出版 2004年11月

エントロピーの法則 Ⅰ・Ⅱ ジェレミー・リフキン著 竹内均 訳 祥伝社 1982年11月・1983年11月

経営者の役割 C.I.バーナード著 ダイアモンド社  1968年8月

創造的経験 M.P.フォレット著 文眞堂 2017年7月