「企業の社会的責任」 企業の社会的責任シリーズⅡ


現代企業の特質と社会の調和」の視座となる「企業の社会的責任シリーズ」についての第2段は、

 「企業の社会的責任 ー企業とコミュニティ・その歴史(1900-1960)ー

 モーレル・ヘルド著 企業制度研究会訳 1975年1月 (株)雄松堂書店 発行」です。

(THE SOCIAL RESPONSIBILITIES OF BUSINESS company and commmunity by MORELL HEALD 1970) 

 

主に、内容を目次を中心に確認をしてゆきます。(6章以降の詳細は準備中です)


1.19世紀のビジネスにおける社会的責任と慈善

「慈善と友愛は、19世紀のアメリカ人に対して強く求められた理想であった。啓蒙的な人道主義とキリスト教の教えとが、人々にお互いの連携と義務とを思い起こさせた。」(P1)

 

企業とコミュニティ

 「19世紀のアメリカで、隔絶した渓谷や鉱山地帯に生まれた幾百もの会社町では、ビジネスマンがそう望んだにせよ、コミュニティの状況と経済的利害が絡むという現実を回避することは出来なかった。」(P3)

「従って、彼らはその地域の一般社会状況について責任を持ち、またそれに依存をせざるを得なかった。」(P4)

 

イリノイ州ブルマン市

「ブルマンの町は、啓蒙的な経営政策の一例として広く賞揚された見本市であり、この町に対するブルマン社の投資は800万ドルに上ると推定された。コミュニティには、貸家・公園・運動場及び教会が含まれていた。」(P8)《⇒失敗となる》

「ビジネス・リーダーシップをコミュニティの生活や問題から切り離してしまったことが、有効な社会政策の形式を妨げ続けてきた。」(P10)

 

戦争・鉄道そしてYMCA

「工業化と社会変動への恐怖の為、何人かのビジネスマンはその経済的利害をより広い社会的文脈の中で考えるようになってきた。」

「こうした問題に取り組む機関には、戦争の生み出した二つの全国組織、すなわち全米衛生委員会、YMCAの支援をした全米キリスト教徒委員会がある。」(P11)

「相互理解及び相互援助の為の新しい方法は、19世紀の斬進さと混乱の中に、わずかに頭をもたげたに過ぎなかった。次の半世紀において現れたより社会的関心の強い企業制度の先駆者として、今日それらの意義を正しく評価できる。」(P16)

 

慈悲とビジネスの思想

「YMCAと産業界の間に育まれた協力関係は、すでに他の研究によって明らかにされてきたアメリカのビジネスの思想に対する宗教の継続的な影響というものを裏書きしている。世俗的な富と成功がしばしば宗教的に是認されるのであれば、宗教はその富が振り向けられる使途についても影響しうることになる。耳を澄ますなら、数世紀にも及ぶキリスト教とユダヤ教の教えに由来するスチュワードシップの教義や成功者の不幸な人々に対する責任の教義が依然として説かれているのが聞こえてきた。」(P17)

「1889年9月、‥‥‥‥アンドリュー・カーネギーの「富」という簡単な題名の論文である。彼は、成功したビジネス・リーダーは自らをコミュニティ全体の利害の受託者と考えるべきであるという理想を広める上では誰よりも大いなる貢献をなした。」(P19)

「カーネギーは宗教的な伝統を否定しているが、彼の言葉の中には、スチュワードシップというキリスト教の教義の根強い影響が明らかに認められる。重要なのは彼の見解の独自性ということでなく(事実、彼の見解は深い関心を持っていたビジネスマンにとって、指針となっていた強い信念の主張に他ならない)、彼がこの思想を実行に移す仕事にかけた威信と関心の広さおよびその打ち込み方である。」(P20)

「成功したビジネス・リーダーは『芸術の支援者、教育の振興者、文字と科学の友人、あらゆる公共的な改善施策の推進機関でなければならない‥‥‥‥』という希望である。」

「19世紀には欠いていたが、20世紀には持たねばならなかったのは、理論的根拠━ビジネスとコミュニティの関係の概念━であり、そこでは社会的責任は個人の良心や関心にのみ負わせるもとしてではなく、同時に企業の持つ資源にも課せられる責任としてはっきりと認められていた。」(P22)

 

 

2.改革の時代のビジネス  1900-1920年

 新たな世紀へと進むにつれて、工業化のもたらした不幸で破壊的な結果の方が、ビジネス・ステイツマンシップの成長の兆しよりもはるかに明確になってきた。(P23)

 ビジネスと社会の利害調整の為の努力という形をとった。

 こうした努力は三つの大きなカテゴリーを中心として展開された。(P24)

 

都市の生活

 都市生活は様々な形で、使用者や商人の関心と意識を触発した。都市化は労働力と市場の両方をもたらし、従って、それが市民生活向上の為の活動を支援する動機となったことは明らかである。また、ビジネスマンは都市生活の量的側面だけでなく、質的側面もビジネスマンにとって重要であることを経験によって知った。健康な労働者と快適な生活条件は、長期的にはよりよきビジネスを意味した。また、ビジネス・リーダーは郷土の誇りという事からの叱咤をほとんど逃れる事は出来なかった。彼ら自身の経済的成功と社会的地位が、コミュニティの繁栄にともなってもたらされてきた場合は特にそうであった。(P24-25)

 全国的に、新たな市民の良心が芽生えつつあった。ビジネスマンは、ソーシャル・ワーカー、政治改革者等と共通の利害並びに相互依存の関係を共有し始めていた。この新しい意識の中から、新しい形のコミュニティの組織が育ったのであり、やがて、ビジネスは都市の福祉制度の網の目の中に固く結びつけられることになる。(P30)

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ビッグビジネス

当然ながら革新の時代に大衆の最も強い関心を引いた企業の動向は、経済的統合であった。都市の生活状態より大規模企業の普及の方が、多くのビジネスマンにとって直接の関心事であった。これに加えて、「トラスト」に対する大衆の不満の高まりによって、政治的な生産を加えられる恐れが出てきた。

 革新主義者は、大規模な社会的・経済的組織のもたらした結果を恐れ、経済力の濫用と非民主主義的行使の明白な証拠を見て怒ったが、それでもなお彼らは完全な「反ビジネス」派でなかったことは、充分に明らかにされている。しかし彼らはもはや以前のように、ビジネスあるいはその他の特殊な利害集団の福祉と進歩が自動的に公共的利益につながっているとは信じなくなった。(P31)

 「新しい競争の理論は、長期的にはいかなる階級も他の階級の繁栄なしには享受しえないということである。」この考え方は決して新しいものではない。しかし、初めての十億ドル会社の出現を誇っている経済体制という状況下にあっては、それは最も進歩的なビジネスのスポークスマンが想定した来たものよりも、広いビジネスの利害と組織の概念を指向するものだった。(P38)

 

労使関係

 都市生活の質への関心、政治的圧力への感受性、更にはしばしば混乱していた大規模生産体制の整序の必要性の認識の深まりが結びついて、使用者の関心は労働条件と労使関係に集中した。‥‥フレドリック・ウィンリー・テイラーの指導の下で、科学的管理法によって労働能率の物的側面については注意深い研究が始まっていたし、他には分析を労働者のモラールの部分まで拡げていた人々もあった。‥‥こうした企てを通じて限られたものではあったが、労働者のモチベーションの研究が始まった。そして、大幅な労働条件の改善が達成された。産業福祉計画を開始した使用者は、労働の生活に及ぼす諸条件に自分たちが関わっていることを暗に認めるようになった。(P38-39)

 複視資本主義の出発点においては、公的及び私的利害、利己主義と利他主義、労働者やその組織への敵意と友情、正義と寛容などすべてが混在していた。そして、その動機にいかんに関わらず、前例と経験の基礎が出来、ついにはその基礎の上により啓蒙的な企業の社会政策が樹立されたのである。(P47)

 

パブリック・リレーションズ

 満足すべき社会政策のみでなく、優れた経済的サービスがビジネスの全体としてのパブリック・リレーションズにとって有効であるという考え方がすでに唱えられ始めていた。‥‥‥‥‥パブリックリレーションズが一般的な批判や反ビジネス的な圧力に対するビジネスからの解答であったとすると、有効なパブリック・リレーションには、言葉だけでなく説得性のある行動が含まれなければならないことを理解し始めたものもいたのである。(P50)

 

サービス 《奉仕・公共事業》

 一部は自己防衛の為、一部は明らかに自らの関心の高まりによって、ビジネスマンは自己の利益と社会の福祉との関係の再検討を強いられることになった。

 サービスの思想は、革新主義の「向上」という道徳性の一要素となったもので、ビジネスマンは必然的にそのことに関わらざるを得なかった。(P51)

  多くのアメリカのビジネスマンの間では、長年の論争によって国民生活にビジネスが果たすべき役割という問題に関心を持つようになった他の人々の間でも、ビジネスがその潜在能力を充分に発揮できるのは経済的業績だけでなく、社会的業績に注意を払うことを通じてのみであるという確信が育ちつつあった。(P54)

 

 第一次世界大戦

平和が訪れた時、戦時中に試された経験やアイデアが残った。その中からまもなく企業の役割と責任に関する新しい考え方が現われ、更に激しい社会的・経済的変動の炎の中で試されることになった。(P57)

 

戦後の態度

一台でも機会を売ったら、そのコミュニティの市民の1人となるのである。そこに住むすべての市民が果たすことを期待されているのと同様に、そのコミュニティの為になんらの奉仕もしないとすれば、企業は良き市民ではない。‥‥‥‥‥このような説明は‥‥‥‥‥将来を予測するものでもあった。(P59)

 

 

3.経営者のリーダーシップ

 企業官僚制が形成されつつある中で、権威と責任の把握が大きな問題となった。(P60)

 この新しい経営者の本質、その新しい役割の意義、それに伴う責任への備え、そうした新しい社会思想や社会観の展開、こういった事柄が本章及び次章の主要な問題である。(P61)

 

経営者の役割(P61)

 1932年に、‥‥‥‥‥「近代株式会社と私有財産」‥‥‥‥‥の刊行により過去数十年しだいに高まってきた企業の発展に対する関心は頂点に達したのであった。(P61)

 大企業における所有と経営の分離は「財産という原子」の分裂を意味するとバーリとミーンズは指摘する。‥‥‥‥‥実際に政策決定権を行使するのは経営者であり、利潤に対して直接的な要求が彼らに課されることはほとんどなかった。

 多数の参加者の協働の一形態と考えられる大企業は、一つの経済制度であると同時に社会制度になった、とバーリとミーンズは述べている。さらにまた、経営者も単に自分自身の利益の為にのみ新しい権力を行使することは出来なくなったのである。(P62)

 企業に対して直接所有権をほとんどあるいは全くもっていないような経営者が、企業にもっと深い係わりを持っている人達と同じように効果的に管理し得るかどうか疑っていた。(P63)

 ヘンリ・バーナム・プアーは、法人形態は経営者の側における無責任と無能力とを促すと思っていた。

 所有と経営の一体化は、個人の献身と責任を保証し、「公益の最大限の保護」を確保した。(P64)

 多くの企業は従業員代表制に踏み切った。

 これら企業組合は、真に独立した代表制だけが与えうる実質的な内容もなしに、使用者と従業員の協議性を出現させたのである。(P65)

 しかし、真実でも見せかけでも、従業員代表制という案は、労働者の権利を企業構造そのものにおいて正式に認めるべきであるという経営者の認識の高まりを期待するものであった。

 従業員代表制は、人間関係に対する新しい関心と密接に結びついていた。‥‥‥‥‥1920年代の思慮深いビジネスの指導者は、この20年のうちに徐々に発展してきた科学的管理と経営心理学に深い関心を抱いていた。‥‥‥‥‥経営者は労働者に対する責任を考慮する際に、彼らの経験の社会的側面をもはや当然無視することは出来なかった。‥‥‥‥‥‥協働と調整とがその本質であり、これらの極めて重要で錯綜している関係の健全性を保つという責任こそ、まさに経営者の職能の中心であった。(P66)

 経営者は新しい視角から自分自身と自らの責任とを検討し始めた。‥‥‥‥‥‥経営者は多数の利害関係を持つ人々の要求の間に立ち、これを調整する調停者になったのである。

 経営者の役割を受託機能だとする定義を述べた人々は、明らかにバーリとミーンズの結論を先取りしていたのであった。(P67)

 企業の範囲が拡大するにつれて、企業の社会的意義が明確化することも真実であった。1920年代の経営者が、企業と他のパートナーとの関係についての新しいモデルを確立しようと試みた時でさえ、その社会的責任の新しい定義を探求せざるを得なかったのである。(P68)

 

専門職としての経営者

 調停者としての経営者という考え方と対になるのが専門職としての経営者という概念である。‥‥‥‥‥‥この概念は、‥‥‥‥‥‥大企業の性質の変化に深く根ざしたものであった。(P68)

 専門職というものはその本質的特徴として、知識体系・厳格な知的訓練・個人的利益よりは人類への奉仕によって業績を測定する倫理などの発展を必要とする。ブランダイスは、これらの条件がビジネス教育や技術教育の普及科学的管理の手法・あるいはビジネスと政府の緊密な関係等を通じて満たれていると確認した。ビジネスの成功は、製品の改善と無駄の排除、「顧客及び社会との正しい関係の確立」といったことに、以前よりいっそう依存するようになってきたとブランダイスは主張した。ビジネスと社会との基本的な相互依存関係に対する認識が一般化した。人々は、「企業活動のうちに人間の幸福や不幸が織り込まれている。」ということに気づくようになってきた。

 19世紀におけるビジネスの拡大は、実際のところ専門的訓練と価値への依存を高めたのであった。(P69)

 新世代の経営者が支配権を握るようになるにつれ、専門職の伝統や考え方はしだいにビジネス・リーダーに浸透するようになった。(P70)

 すなわち「ある種の義務が医学や法律のような専門職に付随しているように、多くの種類の職人や技師にも義務があり、とりわけ経営に参加している人々には義務があるという事を知っている。」と述べた。

ビジネスは結局のところ人々の信用を獲得し、維持してはじめて成功を収める事ができるのである。(P70)

 

 ハーバード大学の総長A・ローレーンス・ローウェルはビジネスを「最古の技術であって最新の専門職」と述べ、経営者が人類に奉仕する為の正規の訓練と集団の努力の拡大を強調した。また、高度なビジネス教育の萌芽はそうした彼の主張を裏付けているように思われた(P72)

 

ビジネス・リーダーシップの出身

 1920年代までには、さらにいっそうの多くの若い世代の経営者達が企業のリーダーシップをとるようになった。こうしたグループのうち多くの人びとは、正式の専門的訓練を受けていた。GMのジェラード・スウォープ、アルフレッド・P・スローン二世‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。(P73)

 経営者の役割とそのメンバーの性質に変化が生じたので、経営的人材の採用に注意が向けられるようになった。(P74)

 同時に専門教育を受けた専門経営者の出現は、公共の福祉に対する客観性と感受性の資質━━それが責任あるプロフェッショナリズムの品質証明である━━が増大しうるような環境づくりを促進したのであった。(P78)

  

ビジネスの為の教育

 高等教育がビジネスの成功にとって次第に重要になるにつれ、ビジネス教育の必要性もアメリカの大学でますます強く意識されるようになった。(P78)

 はじめから学界には、ビジネスやビジネス教育を広範な社会的関連のうちにおいてみようとする傾向があったので、実用性、実践性を強調せよと実業界からの圧力がかかったようであった。‥‥‥‥‥‥大学のスポークスマンがビジネスリーダーの社会的役割という広い視野を常に強調していたにせよ、財務・科学的管理・その他この種の領域への専門化は当時の社会的要請だったのである。(P79)

 エドムンド・J・ジェームスは、「[ビジネスマンの]教養を高め、自由なものの考え方をもたせ、多様なものの見方や広い視野を与え、社会の人々に共感を持ち、公共の福祉を増進させるための手段を模索し利用する場合に、最大の幸福を感ずるような公共の精神を作り出しかつ涵養するような教育」の必要性を早くも1891年説いている。(P80)

 多くのビジネスマンが同意し、またホッチキスが期待したのは「程度の差があっても、多くのビジネスマンは一般の人々が要求するようになった公共の福祉の認識を確保するような組織の基準を作り上げようと熱心に努力するであろう」ということであった。

 教育はこうした「ビジネスの新しい理想」を作り上げる役割を持っている、とホッチキスは確信していた。ビジネス・スクールのなしえた二つの貢献は、科学的方法と人間関係論であった。(P82)

 

 1929年の‥‥‥‥‥‥意見調査によると、‥‥‥‥‥‥経営教育の為の最も価値ある講座は何かという質問に、1600名以上のものが、「ビジネスの置かれている社会環境」を含む講座と回答をしており、それは英語と「企業活動の記述と分析」とについで3番目にランクされ、経営管理の講座より重要なものとされたのである。ビジネスと社会の相互依存性への確信が深まったということは外見上からも明らかであった。(P84)

 

 ハーバード大学の学部長ドーナムは、‥‥‥‥‥‥宗教・政治・法律によって長い間握られていたリーダーシップをビジネスがとると考えた。早くも1927年にドーナムは「社会的視野を持つビジネスマンを養成し、強化し、増やすことこそが」文明それ自体の問題でないまでも、「ビジネスそれ自体の中心的問題である」と結論した。‥‥‥‥‥‥従って、このようなビジネス・リーダーシップの社会的責任は「不可避的な」ものである。‥‥‥‥‥‥「ビジネスの専門家はいるが、専門職としてのビジネスは、既に存在しているというよりもむしろ現在育成しているところなのである。」

 確かにドーナムは、産業に建設的力が働いているのをみており、この中に啓蒙的な自己利益がしばしば公共の福祉と一致するという認識の高まりを見出だしたのであった。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥教育は「啓蒙的な自己利益の知的基盤」を形成する役割を有していると彼は確信していた。知的訓練により、経営学を学ぶ学生達は社会的・道徳的問題を「広い視野から健全に」考えることが出来るようになったのである。「社会的視野‥‥‥‥‥‥がなければ、ビジネス教育はその意義を最大限に発揮させることが出来ない」とドーナムは信じていた。(P84-85)

 

 

追記:1930年以降のビジネス教育

 

 1929-33年[大恐慌]の事態は、大多数の経営者の特徴であった経済的理解・人間関係の洞察・倫理的感受性といったものが極めて不十分あったことをはっきりしすぎるほど明確にした。(P85)

 

 シカゴ大学の学部長、リベリット・S・ライアンは、ビジネス教育の責任を担っている人々は、この問題の社会的意義をよりいっそう強調する必要性に目覚めつつあると主張した。しかし、彼やその他の人々の努力にも関わらず、多くのビジネス教育は専門的問題や技術という狭い範囲に焦点を合わせ続けた。(P86)

 

 デイビッド学部長は、‥‥‥‥‥‥コミュニティにおいて積極的にリーダーシップを発揮することにより、専門家としての責任を果たすようにと訴えた。彼は「今日のビジネスマンにとって第一に必要な事は社会において危険な事に無視されてきた社会的・政治的機能に対する同様の志気やジュ訓練の想像力を、経済的な手腕と結び付けることである」ということを銘記させたのであった。(P87)

 

 しかし、中小企業にとっても、社会的・政治的要因が次第に需要さを増し、無視しえない問題になりつつあるという事は明らかであった。(P88)

 

 カルキンスは、啓蒙的な経済のリーダーシップに対する社会の要請は、ビジネスの分野を越えて広がっていると述べている。‥‥‥‥‥‥経営学部は経済組織のあらゆる形態に共通して見られる基本的な原理を探求し、教育しなければならないと彼は論じている。‥‥‥‥‥‥こうした事実は、独立した領域としてのビジネス・リーダーシップの教育は、経済全般のリーダーシップのための教育に従属すべきである」ことを示唆した。(P88)

 

 ビジネスマンとしての準備において、広範な教養の習得を犠牲にして、専門教育を強調しすぎているという点こそが、半世紀の経験を経た後の最も重要な批判であった。経営者の社会的責任をもっと考慮せよとの勧告がなされた。(P87)

 

 ここにあげた専門職の理想は、ビジネスから直接的な支持はおそらくほとんど得られないであろう。しかしこれは多くの点で過去50年間に渡ってビジネスリーダーの視野を会計帳簿や生産日程表をこえて、かすかに見える新しい領域へと拡大させた動きの必然的結果でなのであった。(P86)

 

 

4.20年代におけるビジネスと社会

 1920年代の進む中で、大企業の経営者が自らの責任を検討するにつれ、彼らは自らの権限の直接的範囲を超えて存在する社会集団や企業に対する社会的条件の重要性をしだいに認識するようになった。(P89)

 同時に広告やパブリック・リレーションズの領域の拡大、また特にラジオという新しい媒体が企業と社会のコミュニケーション経路を強化した。‥‥‥‥‥‥国際共産主義という亡霊に対する恐怖心からの反動によって高まった戦後の保守主義は、多くの人々に政府よりはむしろ企業に重要な社会的リーダーシップを期待させるようになった。(P89)

 

大企業とパブリック・リレーションズ

 無批判な大衆を自分たちの思い通りに従わせようとすると決めた人々の脅迫と操作の例は極めて悪名が高かった為に、パブリック・リレーションズ産業はすべてその当初からほぼ疑惑の目でみられることになった。(P93) 

 正しい企業組織は利潤と社会善をもたらすというのが、フォードの信念であった(P95)

 アルフレッド・P・スローン二世はビッグビジネスが大衆の理解を必要としているということに注目して、「経営者に第一に要求される資質のひとつとしての正直さ」に関する政策に賛同した。スローンはこのような政策は「正直であっても損なわれないような資質を企業は持たなければならない」ということを意味していると付け加えた。(P96)

 「大衆にとって良くない事は、ビジネスにとっても良くない。」とデフリーズは主張した。(P97)

 

同業者団体

 大衆の承認を得ようとする企業の努力は、特定の産業の多くのメンバーが協同して相互の利益を追求するという同業者団体によって推進され、またある程度それと並行して進められた。‥‥‥‥‥‥同業者団体には大企業だけでなく多くの小企業も参加していたので、これらの団体はトラストにまつわる厄介な問題にほとんど苦しめられることはなかった。しかもこれらはトラストと同じような利益を与えた。なぜなら同業者団体は、生産基準や価格政策から労使関係やパブリック・リレーションズに至るまでの問題に関して、共通の情報とサービスをそのメンバーに提供することが出来たからである。(P98)

前米商工会議所グラント会頭は、「ビジネスマンの間では一般に企業はそれ自体の為に存在しているのではなく、一つの制度でありそれは共通の運命に奉仕し、公共の利益の為に各自が最善を尽くすように人々を奨励すべきであるという信念が高まりつつある。』こうした信念の高まりは、正しくは企業における精神的発展と呼ばれるであろうと」と続けている。(P101)

 

受託機能

 経営者およびビジネノそれ自体の役割りについての新しい概念の魅力は、「受託機能」と「サービス」という用語の人気がおそらく最も象徴的に示していた。(P103)

 「サービス(奉仕・公共事業)」とは概して企業を社会に結びつける絆をさしていた。(P103)

 経営者は次第に株主と従業員との間の調停者になり、「多くの人間関係が展開される中軸」になったと考えていた。(P103)

 

 彼が最も   ロックフェラー (P106)

 

 

 経営者の受託機能は、バーリとミーンズがじきに指摘したように、このように経済的義務だけでなく社会的な義務も意味をするようになった。‥‥‥‥‥‥企業の社会的責任と言う将来の教義は明確に描き上げられていた。

 1960年代‥‥‥‥‥‥「新しい」経営哲学としてしばしば言及されるようであるが、企業の受益者の中に特に一般大衆をも含めるというその中心的な特徴は、すでに1920年代の指導的な「ビジネス・ステイツマン」によって明確に描き出されていたのであった。(P110)

  

社会的責任か経済的責任か?

 経営者の責任の概念が拡大したので、その責任の範囲についての多様な解釈が可能になった。利潤が唯一の目的ではなく、多くの対立する利害や目的が経営者の判断の尺度によって評価されるべきであるとするならば、その均衡点はどのような指針によって見出されるのであろうか?ひとたび一般的な社会的責任が企業に受け入れられたなら、論理的にはどこにその限界を画乗り出させるのにすることができるのだろうか?様々な困難がある以上、多くのビジネスマンが企業を海図のない受託機能という海へ乗り出させるのに躊躇したとしても、なんら驚くに及ばない。(P111)

 

受託機能への批判

 1929年以降、十年間の経済的安定への回復といまいましい記憶の悪さとが、企業の指導者の側に社会的責任の主張を復活させなかったようである。20年代にサービスと受託機能とを強調したビジネスのその後の議論は大部分不況の時代の当然の幻滅を反映し続けていた。(P120)

 

企業の慈善

 1920年代において経営者の新しい社会的意識を行動へと移し替えようとした最も重要な努力が、企業の慈善活動の組織化を出現させた。(P122)

 企業の受託機能及びサービスという考え方は、企業コミュニティの福祉活動への援助の増大のうちに表されたのであった。(P126)

 

5.共同募金活動 1918-1929年

 

  以前にはめったになかったことだが、社会参加の新しい形態を考慮せざるを得なくなった時、経営者は1920年代の共同募金の出現の中に、彼らの慈善事業政策を具体化させるような着想や行為のパターンを発見した。ビジネスと社会事業との出会いが、企業の組織化された慈善活動の基礎を準備した。そのことはかなりコミュニティから遊離していたビジネスマンをその各部分と接触させ、またそうすることによって彼らの理解を豊かにし、彼らの関心を拡げるのに役立った。わずか十年の間に、不況と縮小の激しい試練に十分耐え抜くほどの強さを示したあの両者の関係が打ち立てられたのである。(P127)

 その事はビジネスとコミュニティの双方にとって有益であり、かつ少なくとも部分的には伝統的な個人による慈善や博愛の行為に対する参加の減退を償うものであった。それは大変望ましいことであるが、その他のパブリック・リレーションズ活動において、非常にしばしば欠けていたビジネスとコミュティとの間の「相互通行」の基礎を築いたのである。(P129)

 

組織的な募金活動の始まり

 共同募金を通じて募金の組織化が発展したのは、ビジネスと社会福祉との双方の側に、基金調達のプログラムをもっとうまく管理することが必要となってきたためであった。‥‥‥‥‥‥詐欺や重複や非能率に対する疑いが一般に広がっていた。‥‥‥‥‥‥「アメリカのビジネスマンは寛大であっても愚かであってはならない。」(P130)

 ビジネスからの抵抗には2種類あった。一つは福祉活動の妥当性と能率に挑戦した人々から出てきたものであり、もう一つは慈善活動の価値には必ずしも疑問を抱いてはいなかったが、個人の寄付と対立する企業献金の妥当性、必要性、または合法性に疑問を投げかけた別の人々から出てきたものである。(P132)

  共同募金運動の生存は、当時のビジネス・リーダーが社会の諸問題に積極的に関係を持ち始めていあたことを示している。そうするようになったのは、主として彼らが交際した社会事業の専門化の力、有能さ及び理解に負うものであった。(P136)

 

ビジネスと共同募金との協力の問題

 いくつかの都市に事業所や工場を持つ全国的企業は、今や彼らが受け取る寄付要請の数の増大に悩まされ始めた。(P136)

 会社と募金事業幹部との間の年中絶えまない不一致の原因は、地域社会の事業に対する寄付の基準をどう取り決めるかに関係していた。(P137-138)

 再び募金活動の回数、寄付のやり方の違い、および企業寄付の合法性といったような全国レベルでの方針の調整を必要とすると思われる問題が生じてきた。(P142-143)

 

1928年のワシントン会議

 正しくは、全てのビジネスは大小を問わず、公益であるか、公害であるかのいずれかである。(P145)

 第三部会の正式な報告は、地方会社及び地方的でない会社もコミュニティの福祉事業を支援する責任を有すると報告した。(P147)

 

ビッグ・ビジネスと共同募金: ウイリアムークロクストン報告

 富のよりますます多大な部分、とりわけ株主に配当されない収益が企業の支配下に置かれるほど、その新しい富の形態がより個人的な形態にある富‥‥‥と同様に、コミュニティの福祉の要 求を満たす責任を分担しているかどうかを、緊急に探究する必要性が増大する(P155)

 共同募金だけではビジネスの社会的責任の問題に対する十分な解答を提供できない事を未来は示すであろう。しかし募金会の運動が、第二次世界大戦後に発展するようになったビジネスとその他のコミュニティの利害との間の関係の在り方にひとつのモデルを提供した事は事実であった。(P163)

 

 

6.5%修正案 1929ー1935年

 

恐慌時代の企業と募金会

 

企業の慈善事業と法律

 

5%修正案のための運動

 

修正案の最初の成果

 

 

 

7.ビジネスと社会 ━━ 恐慌と戦争の時代  1935-1945年

 

企業寄付の基準

 

産業合同委員会

 

ビジネスと社会

 

経営者の役割

バーナード著

 

第二次世界大戦

 

 

 

8.企業の新しい責任領域  1945-1960年

 

ビジネスと教育

 

コミュニティ・リレーションズ

 

ビジネスと芸能

 

宗教と政治

 

 

 

9.方法と手段 ━━ 社会的責任の実行  1945-1960年

 

会社財団

 

ビジネス団体とコミュニティの要求

 

企業の慈善活動の諸次元

 

企業の慈善活動と世論

 

 

10.企業の社会的責任の理論  1945-1960年

 

「経営者的」見解

 

社会的責任の批判者

 

企業責任の吟味

 

社会的責任の再評価

 

 

 

11.結論 ━━ 責任の評価

 

社会的責任の源泉

 

責任と正当性

 

パートナーシップの見通し

 

 

訳者あとがき

 

 

 


(6章以降の詳細は準備中です)