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P.F.ドラッカー著 「マネジメント」 上


ここでは、「企業と社会 ~現代企業の特質と社会の調和~ まとめ」の考え方に沿って、

 P.F.ドラッカーの「マネジメント ━課題(TASKS)・責任(RESPONSIBILITIES)・実践(PRACTICES)」を、資本主義(自由市場経済体制)の改良主義の視点、自由企業体制における「企業と社会」の調和(自由企業体制 の擁護)と企業の主体的責任に基づく自由資本主義経済体制の歪みの調整 を担う専門職能としての「マネジメント」という視点から、この書籍の内容を確認してみみました。気持ち的には、次のような表題として捉えた方が適切では良いかなと考えています。

 「マネジメント ━ 課された任務(Tasks)・(組織と社会に対する)責任(Responsibilities)・遂行の必要性(Practices)」

 ボリュームのある本でもありますので、上記の主旨が書かれた部分のみ目次を整理しながら、内容を確認しています。

 この「マネジメント」は、どちらかと言えば「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 単行本 – 2009/12/4」のように、「マネジメント」の成功の為のノウハウ本のように捉えられてはいますが、ここでは『マネジメント』の社会的責任という視点から抜き出していますので、興味を持たれたら原著の一読をお薦めします。本来は、マネジャーに昇進した時点では一度読んでおくべき内容の書籍だったと感じます。

 

参考) マネジメント(上) 著者 P.F.ドラッカー  監訳者 野田一夫 村上恒夫 1974年3月 発行 ダイアモンド社

 (P.F.Drucker  "Management : Tasks, Responsibilities, Practices" 1974)

 

(☆印は今後補足する予定の内容)

[ ]は追記した部分です。


日本語版への序文 (1974年の春)

 

 「日本の日本の経営が成し遂げた偉業を、批判攻撃することが、今日の世界はもとより、日本国内においてすら一つの風潮となってはいるが、これはとんでもない被害妄想というべくであろう。」(P2)

 「必要とされたのは、経営者の新しい課題と責任に対して一つの洞察を与える書物、なかんずく、新しい目的意識と使命感を与える書物であった。従って本書の表題『マネジメント:課題・責任・実践』は、私に関しては思いつくどの表題よりも、本書の狙いを的確に表現していると言える。

 誤解のないために、是非ここで付け加えておきたい事は、本書は単に企業経営を論じたのではないということである。」(P4)

 「ただ私がひそかに期待しているものは、日本読者が、本書を通して彼ら自身の伝統について新しい見方を持って下さるということである。」(P8)

 「企業を含む現代社会のあらゆる組織体が、社会や国民経済全体のためにも、また地域社会あるいはそこに住む個々人のためにも、ますます生産的かつ効果的でなければならない時代こそ、まさにこれからの時代なのだというのが、本書で我々の主張したい事なのである。組織体の活動をより効果的なものとし責任あるものとする事こそ、経営者の役割である。経営者を除いては、これを可能にしうるものはない。我々を取巻く現代社会ないし経済は、各種の組織体の活動なくしては存在し続けることが出来ない。なかんずく、中心的なものは企業である。それゆえに我々の社会は、以前のいつの時代にもまして、経営者の品性、責任感、および能力の向上に依存しているのである。

 また、本書は経営の『社会的責任』と『利潤』の間には、いささかも基本的対立のない事を主張している。逆にもし経営者が『”利潤の確保”こそ第一の社会的責任である』ということを認識し損なうなら、それは経営者の資格要件を問われるほどの決定的な五人である。」

 「しかし我々現代社会が切実に必要としていることは、利潤がなくてはならないものだという認識である。」

「利潤は、‥‥‥‥それは経済社会全体が必要とする何ものかである。」(P8-9)

 「社会は資本形成━これは経済学者が「利潤」のかわりに使う言葉である━がそこに住む人々の為に、好ましい未来の仕事を用意する為の唯一の方法であるがゆえにこそ、それを必要としている。」

「最後に利潤は、‥‥‥‥満足な人間生活のためになくてはならない他のあらゆるもの━教育から芸術まで、保険から引退した老人の年金まで━をまかないうる唯一の原資であるがゆえにこそ必要とされるのである」

「環境危機やエネルギーの危機の克服は、まさにそのことを必要とする。」(P10)

 

 「アメリカ人がこれまでそうであったように、「利潤」が投資家や企業の経営者のみの求めるものと考えるのは、無責任極まる態度である。しかしまた多くの日本やヨーロッパの企業経営者のように、それを「汚い用語」だとして、なるべく考えようとしないのも同じく無責任な態度ではなかろうか」(P11)

 「私が経営をたんに『私的な職能』としてではなく『社会的な職能』と信ずる他ならない。従って本書では、『責任』ということが繰り返し述べられており、言ってみれば全巻が『責任』ということについて論じられていると言っても過言ではない。‥‥‥‥100年前の渋沢栄一が我々に教えたことがあるとすれば、それは『経営者には責任がある』というひとつのことである。」(P12)

 


まえがき 専制にかわるもの

「我々の社会は『多元的な社会』になってしまい、そこでは経済財(およびサービス)の生産から、保健・社会保障・福祉・教育・新知識の探求・自然環境の保護まで、大きな社会的課題はすべて大きな組織に付託されている」(P25)

「こうした社会構造の本質的な変化に気付いた為に、『組織をぶっ潰せ』と怒りの声をあげるのは理解できる。だが、それは間違った反応の仕方なのである。自律的な組織体が機能して業績をあげるのに取って代わるには自由(フリーダム)ではない。取って代わるのは全体主義の専制だからである。」(P25)

「組織体に業績をあげさせるのは、経営者とマネジメントである。業績を上げ、責任あるマネジメントだけが専制に代わるもので、専制に対する我々の唯一の防衛策なのである。」(P26-27)

「本書はマネジメントをまず外部から眺めて、経営者の課題の諸次元とか、それらの次元に関する必要条件とかを研究する(第一部)。その後は初めて組織化の仕事と管理技能に転じ(第二部)、そしてさらに、最高経営者、その課題、その機構、その戦略へと論を進める(第三部)。」(P27)

「マネジメントは課題である。マネジメントは規範である。だが、マネジメントは人でもある。マネジメントによる達成はすべて経営者による達成である。」(P32-33)

「結局のところマネジメントは実践である。マネジメントの本質は『知ること』ではなくて『行うこと』である。‥‥‥‥マネジメントの唯一の権威は業績である。」(P33)

[以上まで前文の(ページ数)]


以下、基本的には目次(項目)の書き出しになります。


序論※マネジメント・ブームからマネジメント・パフォーマンスへ

 

1.マネジメントの出現

 組織体の社会

 1900年から1970年まで

 

被雇用者の社会

「どの先進国でも、今日の市民は、典型的に言うと被雇用者になっている。」(P5)

 経営陣は組織体の機関

 

経営者は、プロ[フェショナル]、その本質は責任

「マネジメントとは、客観的な職能、学問、課題であって、『経営者』とはこの職能を遂行し、この学問を実践し、この課題を果たす専門職業人なのである。‥‥‥‥近代日本の初期に渋沢栄一が画いた『専門経営者』の儒教的思想は実現されている(後出、次章を参照)。また、経営者の本質は、富でもなければ階級(ランク)でもなく、責任であるという渋沢の基本的洞察も現実のものになった。」(P8)

 

企業の社会から多元社会へ

「今世紀になってから、企業の重要性は低下してきた。‥‥‥‥他の組織体のほうがはるかに急速に成長してきたからである。つまり、社会は多元的になったのである。」(P8-9)

「まったくのところ『新左翼』は『大企業の社会』をうんぬんするけれども、その行動はかえって、企業が支配的な組織体ではないという彼らの鋭い意識を示している。」(P11)

 

企業のマネジメントを中心にする理由

 企業のマネジメントは成功

 マネジメントの出現は重大な出来事

「今日の先進社会には、貴族もなく、大地主もなく、『資本家』と『タイクーン[注:大君から発生の英語]』さえもないので、社会は、その大きな組織の経営者に指導性を求めている。今日の先進社会は、彼らの知識・ビジョン・責任感を頼りにしている。こうした社会では、マネジメント、すなわちその課題・その責任・その実践が不可欠のものであり、また本質的に貢献するものになっている。」(P15)

 

2.「マネジメント・ブーム」教訓

 マネジメント・ブーム

「電話会社にいたバーナード《経営者の役割の著者:経営学のシステム論》の同僚さえ、彼らがバーナードの『道楽』と考えたものに興味を示さなかった。当時の経営者で、自分たちが実は『マネジメント』を実践していることに気づきもしない人も多かった。」(P17)

 

マネジメント・ブームの発生

「マネジメントの軽視から、マネジメントの認識へ、次いでマネジメントの重視という変化は、第二次世界大戦の結果として生じた。マネジメントに注目をさせたのは、何よりもまず、戦時中にアメリカの製造業があげた業績である。」(P18)

 

マネジメント・ブームの伝播:開発途上国のマネジメント

「結局、『マネジメント・ブーム』は共産社会にも達した。‥‥‥‥経済停滞の解決策として『マネジメント』を教え始めた。」(P19)

 

マネジメント・ブームの終焉

「起こっていたのは、経営の『秘法』というものが突然消え失せたことであった。その一つの原因は1971年の『ドル危機』であったかも知れない。」

「マネジメントを力として、職能として、責任として、規範とすることは今後とも残るであろう。それが『マネジメント・ブーム』の唯一の永久な成果であり、また、それが最も重要な成果なのである。」(P24)

 

何を学んだのか

「我々が学んだ最も重要な事は、経営陣、すなわち、我々の社会組織、特に企業において指導し、指揮し、決定する機関は、普遍的な職能を果たしており、どの国でも、または本質的にはどの社会でも、同じ基本的な課題に直面することである。経営者は、 ‥‥‥‥最大の成果と貢献を目指して、ビジョンと資源を方向づける責任を負っている。」(P25)

 

規範としてのマネジメント

「経営者がマネジメントを職業として実践することを意味する。」(P25)

 

テクノクラシーでは不十分

「『マネジメントブーム』は、経営者が『テクノクラート(技術官僚)』以上のものでなければならにことを証明した。」「マネジメントは社会的な職能である。従ってマネジメントは、社会に対して責任を負うとともに文化の中に根ざしている。」「経営者は『クラフトマン(《創意工夫のある》熟練職人)』でなければならない。」(P27)

「各種の組織体の経営者は『社会的責任』を取らなければならない。つまり、彼らが住む世界の価値観、信条、公約について充分に検討し、彼らの組織体に特有な、限られた使命を超えた、高次な社会の指導者としての責任を取らなければならない。」(P28)

 

マネジメントと社会風土

「マネジメントは課題によって決められる客観的な職能である。つまり、マネジメントは規範になる。とはいえマネジメントは、文化的に条件づけられ、ある所与の社会の価値観、伝統、慣習に従う」(P28)

 マネジメントの多様化

「『経済的』に多極化したのとちょうど同じく、マネジメントもまた『多様化』した。

 

補記 マネジメントの起源と歴史

「マネジメントは、これといったマネジメントが無かった時に『発見された』といえよう。」

「アダム・スミス(1723-90)からデビット・リカルド(1772-1823)、更にジョン・スチュアート・ミル(1806-73)に至るイギリスの偉大な経済学者は、彼らの後継者で敵対者であるカール・マルクス(1818-83)を含めて、マネジメントを知らなかった。彼らにとって経済とは、没個人的で客観的なものであった。」

「古典派の伝統を持ったケネス・ボールディング(1910-)『経済学は人間の行動よりは、むしろ財貨の動きを扱う。』」

「アルフレッド・マーシャル(1842-1924)は、『マネジメント』を『生産要因』に追加」(P33)

「はじめからそれらとは違った考え方があって、経営者を経済の中心に据え、資源を生産的なものにする経営者の課題を強調していた。こうした考え方をしていたJ.B.セイ(1767-1832)は、フランスが生んだ、ないしヨーロッパ大陸が生んだ、おそらくもっとも素晴らしい経済学者であろう。彼はアダム・スミスの早くからの弟子で、『国富論』の仏訳者であった。だが、彼の著作では、中心はスミスのような『生産的要因』おかれていたのではない。中心は『企業家(アンツルプルヌール)』━これはセイの造語である━で、企業家というものは資源を比較的に生産的でない投資先から、より生産的な投資先へ方向替えすることによって富を創造するものとされた。」

「『空想的社会主義者』とりわけフランソワ・フーリエ(1772-1837)と天才サン・シモン伯(1760-1825)‥‥‥‥はともにマネジメント発見した。とりわけサン・シモンは組織の出現を預言した。‥‥‥‥社会機構を築くという課題も予見した。彼らを経営者を‥‥‥‥強調したために、マルクスは‥‥‥‥彼らに『空想家』という嘲笑した名前をつけた。」

(P33-34)

「アレクサンダー・ハミルトン(1757-1804)‥‥‥‥は、マネジメントの建設的で、合目的的で、システマティックな役割を強調していた。」(P34)

「ヘンリー・クレー(1777-1853)が、‥‥‥‥『アメリカン・システム』という本を著したが、これはシステマティックな経済発展の為の『青写真』と言ってよいものであった。

「スコットランドの産業家ロバート・オーエン)1777-1858)が、実際に最初の『経営者』になった。オーエンは1820年代にラナークにある彼の紡績所で、生産性と動機の問題・労働者と仕事との関係の問題・労働者と企業の関係の問題・労働者と経営者の関係の問題といった今日に至るまでマネジメントの重要問題とされてきたものと最初に取組んだ。 

大規模な組織の出現

「アメリカではヘンリータウン(1844-1924)によって、‥‥‥‥マネジメントの課題とマネジメントの作業との関係に、システマティックな関心を寄せた最初の人である。」(P35)

「ほぼ同時にドイツでは、ゲオルク・シーメンス(1839-1901)が、‥‥‥‥効果的なトップ・マネジメントを最初に設計し、その課題について最初に検討し、また大きな組織内での意思疎通と情報の基本問題に取組んだ。(後出第49章を参照)」

「日本では、‥‥‥‥渋沢栄一(1840-1931)が、企業と国家目的との関係、また企業が必要とするものと個人としての倫理との関係について、それぞれ基本的な質問を最初に提起した。」「渋沢は『専門経営者』像を最初に描いた。今世紀に日本が経済的主導を取るまでになったのは、渋沢の思想と働きに基づくところが大きい。」

「それから数十年後、1900年頃に、近代経営の主要な考え方はみな形作られた。」「1880年代にフレドリック.W.テイラーという独学のアメリカ人技師が‥‥‥‥テイラーこそ、作業を当たり前のことと思わないで、作業を良く眺めて研究した人類の歴史上最初の人である。」「彼は技術的な目標ないし、利益目標よりは、社会的な目標から出発をしていた。」(P36)

「テイラーの希望━それは、先進国で大いに実現されたのであるが━は、作業の『生産性』向上を通じて労働者に見苦しくない生計を立てさせるとうものであった。」(P37)

最初のマネジメントブーム

「第一次世界大戦後に、最初の『マネジメントブーム』といえるものが起こった。」(P37)

「政治家のうちの二人、‥アメリカのハーバート・フーバー(1874-1964)とチェコ人のトマス・J・マサリーク(1850-1937)‥‥‥‥二人は、『国際的管理運動』を起こして、マネジメントを社会的に大きな力として動員する努力をした。(P38)

1920年代から30年代の研究

「1920年代初めに、ピーエル・S・デュポン(1870-1954)がデュポン社で、アルフレッド・スローン・ジュニア(1875-7966)がGMで、新生『ビッグ・ビジネス』向きの組織原理━すなわち『分権制』の原理を最初に開発した。」

「外見は停滞していた陰で、マネジメン-トについての研究は進められていた。」(P38)

「経営学もまた、いっそう発展した。アメリカではテイラーの後継者として、フランク・ギルブレス(1868-1924)とリリアン・ギルブレス(1878-1972)というオシドリチームとヘンリー・ガント(1861-1919)がいた、イギリスでは、アイアン・ハミルトン(1853-1947)が、‥‥‥‥フォーマルな機構と、その組織に『魂』を与える政策とのつりあいを取る必要性を認めた。」

メアリー・パーカー・フォレット(1868-1933)とチェスター・バーナード(1886-1961)という二人のアメリカ人は、組織内の意思決定過程とか、『フォーマル』組織と『インフォーマル』組織との関係とか、経営者の役割と職能とかを最初に研究した。」

「エルトン・メイヨーが、それぞれ『産業心理学』『人間関係論』を開発して、企業のマネジメントに応用した。』(P39)


3 新しい挑戦

 ”マネジメント・ブームの基礎になった概念 《*マネジメント・ブーム=第二次世界大戦後~1960年代》

「━生産性のカギとしての仕事の『科学的管理法』

 ━組織の基本原則としての『分権制』

 ━人間を組織機構に適合させる、秩序だった方法としての『人事管理』

(これには、職務の記述・評価並びに、賃金・給料の管理だけでなく、『人間関係』といったものも含む)

 ━明日の経営に必要なものを、今日準備する為の『管理者開発』

 ━『管理会計』、すなわち分析と情報を経営者の意思決定の基礎として利用すること。

 ━『マーケティング(市場開発)』

 ━最後に、『長期計画』

この七つは、それぞれ『マネジメント・ブーム』が始まるずっと以前に、前章末の『補記 マネジメントの起源と歴史』で論じたように、実践されて成功を収めていた。いいかえると、『マネジメント・ブーム』は、洗練し、追加し、修正こそしたが、創造したものはほとんどなかった。だが、『マネジメント・ブーム』は、どこの経営者にもそれまで少数の『エキスパート』の奥義であったものに近づきうるようにした。『マネジメント・ブーム』は、それまでまれな例外であったものを一般に実践させてのである。”(P41-42)

 

基礎分野で新知識が必要

 生産性が必要

「経済的な業績に対する要求は、ますます高まってきているが、これは生産性の向上を通じてしか満たされない。」(P42)

 

分権制を超えて

 新しいモデルが必要

「要するに我々は、『マネジメント・ブーム」の際に普遍的なものとして受け取られた『モデル』が部分的なモデルにすぎず、事実もはや支配的なモデルではなくなっていることを知っている。」(P45)

 

人事の管理から人間の指導へ

 

新しい要求

「新しいビジョン、新しい研究、新しい知識が要求されている。」(P47)

 

企業家的な経営者

「既存のものを最適化するのに加えて、新しいものを創造するのに、経営者はますます関心をよせる必要があろう。」(P47)

 

多元的な組織体のマネジメント

 

知識と知識労働者

「先進国のビジネスにとって今後の第一義的な課題は、知識の生産性を高めることであろう。」(P50)

 

多国籍で多文化なマネジメント

 

マネジメントと生活の質

「どの組織体も、「生活の質」と自己の主要な課題をはたすことと両立させることを学ぶ必要があろう。これは、企業の場合には『生活の質』の達成がますます事業機会と考えられる必要があり、経営者によって収益が上がる事業に変えられる必要があることを意味する。」(P53)

 マネジメントの新しい役割

「経営者は‥‥‥‥ますます[社会の]基本的な信条と価値観の実現にも関心を寄せるようになろう。経営者は、社会の生活水準に劣らず、ますます社会の生活の質の為にも戦うようになろう。」

「マネジメントにとって最も重要な変化は、先進国では社会の願望・価値観・存続そのものまでも、ますますそれらの国の経営者の業績、能力、熱意、価値観いかんによるようになるということである。今後30年間の課題は、個人・地域社会・一般社会の為に、『新しい多元性』を持った、新たに組織される組織体を実り豊かにすることである。また、それが何よりまず、経営者の課題(tasks)[正しくは責任(resonsibilities)]なのである。」(P55)


第一部*課題(THE TASKS)

「マネジメントは組織体の機関である。またその組織体は‥‥‥‥社会の機関であり、特定の貢献をなし、特定の社会的機能を果たす為に存在する。従って経営陣は、自己の業績の種類ならびにそれらの業績に対する社会からの要求という観点を抜きにしては、マネジメントの実践をするのはおろか、マネジメントを定義することも理解できない。つまり、経営陣の『課題』こそ経営陣の存在理由となり、経営陣の仕事を決定する要因となり、経営陣の権限と正統性の根拠にもなる。」(P57)

[課題(tasks)は、社会からの要求に基づいてやらなければならない事=任務と理解するのが判り易い様に思います。]

 

 

4 経営者の課題 (The Dimensions of Mnagement[経営者の立ち位置(その値する次元])

 

 経営陣は機関

 

目的と使命[ミッション]

「(1)第一に組織体《非企業の公共サービス組織体を含む》は、ある特定の目的と使命━すなわちある特定の社会的職能━を果たす為に存在する。これは、企業の場合に経済的な職能を遂行して業績を上げることを意味する。」(P60)

 

生産的な仕事と達成意欲がある労働者

「(2)経営陣の第二の課題は、仕事の生産性をあげて労働者に達成意欲を与えることである。」(P62)

 

社会的な衝撃と社会的責任の管理

「(3)経営陣の第三の課題は、企業の社会的な衝撃[インパクト]と社会的責任を管理することである。我々の組織体の中には、他と離れてそれだけで存在し自分自身を目的にしているものはない。どの組織体も社会の機関であり、社会の為に存在する。企業も例外ではない。『自由企業』は『企業にとって良い』から正当化できるのではない。『自由企業』は、『社会にとって良い』から正当化できるに過ぎない。」

「我々の組織体はどれも外部に貢献して、当の組織体に属していない人々に何かと供給して満足させるために存在する。企業は、‥‥‥‥財貨とサービスを顧客に供給する為に存在する。」(P63)

「以上、三つの課題は、常に同一時点で同一の経営行為によって果たされなければならない。」(P64)

[ このブログでの紹介のポイントですので、色付けをしています。]

 

時間という次元[要素]

「経営者は常に現在と未来の両方を、つまり短期と長期の両方を考えねばならない。」

「その人が会社を運営している間は驚くほどの経済効果を生むが、引退した後では燃え尽きて急速に沈んでゆく廃船しか残らないという経営の『神様』たちにあまりにも共通して見られる事例は、無責任な経営行為であり、現在と未来とのつりあい(バランス)をとるのに失敗した例である。」(P66)

 

管理と企業家活動:能率と効果

「効果性こそ成功の基礎である。そして成功した”後で”はじめて能率が存続の為の最小条件になる。

能率は物事を正しく行うことと関係がある。効果性とは正しいものごとを行うことである。」(P70)

[能率=efficiency、効果性・効率=effevtiveness]

 

経営者の課題[Tasks]

「経営者は、自己の課題を成し遂げる為の手段に関心を持たなければならない。経営者は、経営者の職務・経営者の仕事・経営者に必要な技能・経営者の組織に対して関心を持たなければならない。」(P74)

 課題を中心に

「およその経営書で、遂行すべき課題から説き始めていないものは、マネジメントを思い違いしている。‥‥‥‥その種の本は、経営陣をそれ自体独立した実体として扱っているが、経営陣は機関であり、その存在・経営者たること・その正当性は、経営陣が果たす職能だけから理論的根拠を得ている。従って中心は、経営陣が果たすべき課題(Tasks)におかれなければならばい。

 マネジメントを論じる際に、‥‥‥‥経営者の仕事とか、経営組織から始めるのは『テクノクラート』の考え方で、しかもそれは、早晩哀れな『官僚独善』の考え方に堕ちてしまうものなのである。‥‥‥‥企業の使命、目標、戦略を理解しなければ、経営者を理解する事は出来ないし、組織を設計する事は出来ないし、経営者の職務を生産的にすることも出来ない。」(P74)

 

企業が業績をあげるには(Business performance)

 

5.企業の経営:シアーズ物語(managing a Business:The Sears Story)

 企業とは何か、どのように経営されているか

 シアーズ・ローバックという企業の生い立ち

 ローゼンワルドの革新

 通信販売工場という発明

 ウッド将軍とシアーズ社の第2期

 商品計画と管理者開発

 シアーズ社の第3期:販売から仕入れ、調達へ

 上流階級市場と大衆市場

 前途に控えた挑戦

「『自社の事業は何か、自社の市場はどこにあるのか、どの分野で革新が必要なのか』について十分に検討する必要があるかも知れない。」

「『正しい答え』というものは、答えが証明される”までは”、はっきりしたものでない、」(P87)

 

6.企業とは何か(What is Business?)

 企業を創造し、経営するのは人間で、力でない

 利潤極大化の誤り

「企業を利潤の観点から定義ないしは説明することが出来ないということである。企業とは何かよ問われると、普通の人なら『営利組織』と答えよう。普通の経済学者も同じ答えをしよう。だがこの答えは間違っているだけではない。この答えはまとはずれである。

 企業と企業行動についての通説的な経済理論は『利潤の極大化』という理論であるが、これは『安く買って高く売る』という古い諺の込み入った言い方に過ぎない。」(P90)

 利潤は経済活動の理論的根拠ではなく、客観的な条件

「収益性は企業並びに企業活動にとって目的ではなく、制約要因なのである。」(P91)

「つまり利潤は、企業活動並びに企業の意思決定要因を説明するものではなく、またその原因・理論的根拠でもなくて、企業活動ならびに企業の意思決定の妥当性を判定するものなのである。」

「そもそも『利潤動機』が存在するかどうかは、企業の行動・利潤・収益性を理解するには的外れなのである。」(P92)

 

企業の目的:顧客の創造

「企業とは何かを決めるのは顧客である。」

「顧客こそ企業の基盤で、企業を存続させる。顧客だけが職場を与えてくれる。消費者が欠乏し、または必要とするもの供給する為にこそ、社会は富を生む資源を企業に委託するのである。」(P94)

 

二つの企業家的職能:市場開発と革新

「企業はその目的が顧客を創造することであるがゆえに、二つの、いや、二つだけの基本的な職能を持っている。それは、マーケティング(市場開発)とインベーション(革新)である。マーケティングとイノベーションだけが成果を生む。その他の職能はみな『費用(コスト)』だけしか生まない。

「マーケティングは企業に特徴的な独特の職能である。」(P95)

「日本でも同様に、前述の三井《1673年江戸と京都で呉服屋を開業》に倣うものは少なかった。日本で『マーケティング革命』が始まったのは、おそらくはソニーという向こう見ずな新人が、1950年代に最初は日本で、次いで世界的規模で『市場開発』し始めた時からであろう。それまでは日本の大部分の企業は、市場志向型より製品志向型であった。だがそれらの企業も驚くほど急速に学び取った。1950年代以降、世界市場で日本が経済的に成功し、それに伴って『経済的奇跡』がうまれたのも、まさにマーケティングを企業の第一の職能として、また企業の重大に任務として受け入れた為である。」(P98)

  マーケティングは特殊な活動ではない

  IBMの例

 

販売からマーケティングへ

 『消費者運動』は『マーケティングの恥』

「消費者運動が企業に要求しているのは、企業が実際に『市場開発する(マーケティング)』のことだからである。

 

企業は経済の成長・発展の担い手

 経済的職能としての革新[イノベーション]

「従って企業の第二の職能は、『革新[イノベーション]』つまり今までと違った経済的満足を与えることである(P101)

 企業全体の一側面としての革新

 

富を生む資源の生産的な活用

 何が生産的労働なのか

 知識・時間・製品ミックス・機構も生産性の要因

 

利益の機能

「利益は原因でなく結果である。利益は企業が市場開発(マーケティング)、革新《イノベーション》、生産性の向上を行った結果なのである。」

「利益は、不確実性というリスクを補填する為の保険料なのである。」(P112)

「利益は、いや利益だけが、今日よりも”数多い”職場と”より良い”職場を明日作る為の資本を供給することが出来る。」(P113)

「『利益は、保健・国防・境域オペラといった社会の経済的満足とサービスを支弁する。」(P114)

 社会的責任としての利益

 どれだけの利益が必要か

 企業経営は合理的な活動

「企業は目標というものを設定せねばならぬことを意味する。」(P115)

 

7.企業の目的と使命(Business Purpose and Busimess Mission)

 企業の理論

「企業にとっては、『我々の事業は何か、また、どうあるべきなのか』が問われなければならない。」

「『企業の理論』は、‥‥‥‥かなり急速に古臭くなってしまうのが通例である。」(P118)

「機構は戦略に従う。」(P119)

 

ウンターネーマーの誤り

 企業の理論が、特に今日の『知識組織』に必要な理由

 

『我々の事業は何か』は自明のことではない

 セルアド・ヴェイルと電話会社

 トップ・まじメントの第一の責任

『我々の事業とは何か』と《自らお互いに》質問するのは、トップ・マネジメントの第一の責任である。

 企業の目的と使命を定義できなのが、挫折と失敗の大きな原因

 まれにしか質問されない理由

 

異論が必要[異論の必要性]

 

『意見』ではなく『方法』を

 顧客が事業を定義する

『我々の事業は何か』という問いに慎重に答えるには、まず顧客から、つまり顧客の現実・状況・行動・期待・価値観から出発せねばならない。」(P127)

 

誰が『顧客』なのか

 消費者と顧客

 カーペット産業の例

「絨毯産業の例が示しているように、『だけが顧客なのか』という問いに対する正しい答えは、『数種類の顧客がいる』となるのが普通である。

 顧客はどこにいるか

「『顧客はどこにいるか』と問うのも重要である」(P131)

 

顧客は何を買うか

 

顧客にとって『価値』があるのは何か

 不合理な顧客はいない

 経済学者にとる『価値』の概念 

《経済学では、価値が価格のことであるからとされているが、人をして誤らせる者である》(P134)

 価格とは何か

 

『我々の事業は何か』と問う時

「困るまで引き延ばすのでは命をかけた賭けになる。それでは無責任な経営になる。

質問は事業のはじめにすべきである。」(P139)

 企業が成功した時に問うこと

「『我々の事業が何か』と真剣になって問うべき最も重要な時期は、その会社が成功を収めた時である。」(P140)

「古代ギリシア人が良く知っていたように、成功のおごりに対する罰は大きい。会社が成功をしている時に『我々の事業は何か』と問わない経営陣は、結局独りよがりで怠惰で、傲慢なのである。そして成功が失敗に変わるまで間もない事であろう。」(P141)

「経営陣は会社の目標が達成した時には、必ず真剣に『我々の事業は何か』と問うべきである。それには克己心が必要である。責任感も必要である。だが、問わねば企業は没落する。」(P141)

 

我々の事業はどうなるであろう[か]

「『我々の事業は何か』という問いに対する答えで、」成功したものでも早晩古臭くなってしまう。」(P142)

「『我々の事業の特性・使命・目的に大きな衝撃を与えると”思われる”どのような環境上の変化を認めることが出来るのか』。また『それらの予想を我々の企業理論、つまり、企業の目標・戦略・仕事の割り当ての中に”今日”どのように組み込んだら良いのか』このように問わなければならない。」(P143)

 人口動向の重要性

 経済、流行、競争の変化

 

顧客の満たされていない欲求[未充足ニーズ]

「経営陣は、‥‥‥‥提供をされている製品ないしサービスでは、充分に満たされていないのはどれかと問わなければならない。」(P147)

 

我々の事業はどうあるべきなのか

「『我々の事業はどうなるので”あろう”か』という問いの狙いは、予測した変化に対して適応をすることである。その狙いは、現存の継続事業を修正し、延長し、発展させることである。

 だが、それだけでなく『我々の事業はどう”あるべき”なのか』と問わねばならない。企業を別の企業に『変身』させて、企業の目的と使命を実現するには、どんな機会がひらかれつつあるのか、ないしは創造することができるのか」(P148)

「この質問をしないような企業は、自己にとって大きな機会を見逃すことになると思われる。」(P149)

「『我々の事業はどうあるべきなのか』に答える際、考慮すべき要因には、[前述の]社会・経済・市場での変化に次いで、(第二に)革新があるのはいうまでもなかろう。この革新には、自分自身による革新と他人による革新の二つがある。」

「最後に(第三として)、『我々の事業は何か』を、『我々の事業はどうあるべきか』と改めなければならない特殊な、だが重要な理由として、『不適正規模』の事業という問題がある。(後出、第55章を参照)

 

計画的な廃止が必要

「どのような、新しい、違ったことをするのかについての決定に、全く劣らず重要なのは、もはや企業の目的と使命に合わなくなっているとか、もはや1種類以上の顧客に満足感を与えなくなっているとか、もはや優れた貢献をしなくなっているとかという『古いもの』を計画的にシステマティックに廃止することである。」(P150-151)☆

「企業の目的と使命を定義するのは、難しくて、苦痛で、リスクが多い。だが、定義してこそはじめて企業は目標を設定し、戦略を発展させ、企業の資源を集中し、働かせることが出来るようになる。定義してこそはじめて企業は、『業績を求めた経営』が出来るようになる。(P152)

 

8.目標の威力と狙い:マークス・アンド・スペンサー物語 

(The Power and Purpose of Objectives: The Marks & Spencer Story and its Lessons)

 

企業の使命は『社会革命』

 集中の決定

 マーケティング目標

 「[何に]集中すべきか決定したことによって、同社は[第二に]特定の『マーケティング』目標を設定できるようになった。」(P156)

 革新目標

「次に[第三に]、同社が取り組んだ分野は『革新』の目標という分野であった。(P156)

 基幹資源目標

 生産性目標

 社会的責任の目標

「[第六に]その『社会的責任』に対して、特に自社の労働力と納入業者という、大きな影響を与える分野に対して目標を設定した。」(P158)

「納入業者は同社との協力をすればするほど同社への依存度が高くなる。従って同社による搾取に対して納入業者を守るのが同社の経営陣の関心事に成った。」(P158)

「逆に、納入業者を富ませて、安定感を与えようというものである。」(P159)

 利益は目標ではなくて成果

 目標を仕事《業務》の割り当てに具体化

 

教訓

 目標の要件

 目標は企業の存続がかかる分野で必要

 目標の八分野

「要するに目標は、次の『八つの基幹分野』について設定されなければならない。

━マーケティング

━革新[イノベーション]

━人間組織

━財務資源(資本資源と同意語)

━物的資源

━生産性

━社会的責任

━利益という必要条件」(P162)

 

仕事とその割り当ての為の基礎

 目標と測定尺度

「目標は『仕事にまで具体化』されねばならない。そしてその仕事は常に特定のものであり、常にはっきりした曖昧でない測定可能な成果と最終期限、特定の成績責任の割当をもったものでなければならない。」

「だが、目標が強い束縛になると却って害になる。目標は常に予想に基づいている。そしてその予想はせいぜい『情報を通じた憶測』にすぎない。目標は主として企業外にあって企業の管理下にない要因についての評価を表現している。しかも世の中は、静止しないでたえず変化している。」(P164)

 

目標の利用方法

 

「目標は『運任せ』ではない。目標は常に『方向づけ』である。目標は『命令』でない。目標は『公約、自己関与』である。目標によって『未来が決まる』のではない。目標は未来を創る為に、企業の資源と精力(エネルギー)を動員する手段なのである。」(P165)

 

9.戦略、目標。優先順位、仕事の割当 (Strategies, Objectives, Priorities and Assgnment)

 

 基礎分野はマーケティングと革新[イノベーション]

[事業の]目標を設定するにあたってマーケティングと革新が『基礎的な分野』になる。企業がその成果を得られるのは、この二つの分野においてなのである。この二つの分野での成績と貢献に対して、顧客は代価を払うからである。目標はすべて『成績目標』であり、『実行』を狙ったものであり、『良き意図』をねらったのものであってはならない。マーケティングと革新以外の分野での目標を『実行』する目的は、マーケティングと革新という二つの分野での目標を達成出来るようにするおとである。

『マーケティング目標』を一つであるかのように話すのは、人を誤らせる。というのは、マーケティングを遂行するにはかなりの数の目標が必要になるからである。」(P166) ☆

 

集中についての決定

「目標は、『戦略(ストラテジー)』であるのに対して、集中についての決定は『方針(ポリシー)』である。集中についての決定は、云わばどんな戦場で戦うべきかという決定である。そうした『方針』の決定がない限り『戦闘の原則』はあっても『戦略』つまり意図的な行動はあり得ない。

 

市場についての決定

「マーケティングの目標の基礎になる今一つの主要な決定は、市場地位[マーケット・シェア]についての決定である。」(P169)

 

革新の目標

「革新の目標とは、それを通じて会社が『我々の事業はどうあるべきか』という定義を、具体的な行動に移すことが出来るものにする目標のことである。

 どの企業にも本質的に言って三つの種類の革新がある。

①製品(ないしサービス)面での革新、

②消費者行動や価値観や市場の面での革新、

③製品(とサービス)をつくって市販するに必要な各種技能と活動

という面での革新である。それらをそれぞれ、①製品の革新、②社会面の革新(例えば割賦信用《クレジット》、③管理の革新と名付けてもよかろう。」(P172-173)

『革新の目標を設定する際に問題となるのは、各種の革新の総体的な影響力と重要性を測定することが難しいことである。」(P173)

 

資源:その入手、活用、生産性

 資源分野での「マーケティング目標」

「人間と資本の入手という二つの分野では、真のマーケティング目標が必要となる。」(P177)

 ベルシステムの資本市場計画作成

 目標分野としての労組関係

 

生産性こそ、経営陣の能力の第一の試金石

 間違ったトレードオフという可能性

 生産性の指標としての貢献価値

 

社会的次元

 

利益は必要なもの、限界条件

「以上、七つの基幹分野での目標が充分に検討され、設定されたのちに初めて、企業は『[それでは、いったい]どれだけの収益力が必要になるか』という問題に取り組むことが出来る。」(P185)

 

日本の例

 収益率と資本コスト

 収益力の計算

 

収益性の測定方法

 

制約条件としての収益力

 

目標間のバランスを取る

 目標の対象期間

 

予算編成の役割

 

優先順位の設定

 

目標の[設定から]実施へ

 

補記 インフレーションについて

 


以下よりは、参考文献が変わっています。


ドラッカーの名著13

マネジメント(上) ━ 課題・責任・実践

P.F.ドラッカー著 上田惇生訳 ダイアモンド社 2008年12月

 

10.企業家的スキルとしての戦略計画 [戦略計画の作成:企業家的技能] (Strategic Planning : The Entrepreneurial Skill)

 

 盛んな長期計画策定

 計画の対象期間

 長期計画よりも戦略的意思決定

 

戦略計画ならざるもの

 

戦略計画とは何か

 

計画の廃棄

 

何をいつ行うか

 

仕事として具体化する

 

公的サービス機関の成果

 

11.多元社会の到来

 

企業内サービス部門

 

公的サービス期間はマネジメントされているか

 

公的サービス期間はマネジメントできるか

 

例外の持つ意味

公的サービス機関であれ企業内サービス部門であれ、成果をあげているものは例外に属する。しかしたとえ例外であっても、それらのものはサービス機関にとって成果をあげることが可能であることを示している。(P171)

 

 

12.公的サービス機関の不振の原因

 

予算制度による間違った方向づけ

 

効率を上げるなかれ

 

収入源

人は報われ方に応じて行動する。(P187)

 

 

13.例外的存在とその教訓

 

AT&Tの場合

 

アメリカの大学

 

リリエンソールとTVA

 

明治維新の教訓

 

その他の方向性

 

市場か社会主義的競争か

 

公共政策の限界

資本主義と社会主義の双方が、市場が存在しない場合には政策をもって補う事が出来るとする。しかし、予算型組織の弊害が明らかなように、そのようなもので問題は解決しない。(P198)

 

 

14.公的サービス機関の成功の条件

 

公的サービス機関の種類

 

自然独占での規制

 

公的サービス機関における社会主義的競争

 

行政機関での監査

 

公的サービス機関のマネジメント課題

公的サービス機関に必要な事は、企業のまねではない。成果をあげることである。そして同じように必要なことが、病院は病院らしく、大学は大学らしく、行政機関は行政機関らしくなることである、つまり、自ら特有の目的、ミッション、機能を徹底的に検討することである。

 

仕事を生産的なものにし、人に成果をあげさせる

マネジメントの第二の課題は、仕事を生産的なものにし、人に成果をあげさせることである。しかしこのことについては、我々の知るところは極めて少ない。いろいろなことが言われているが、確実な事はわかっていない。

 

15.新しい現実

仕事という言葉ほど漠然とした言葉も少ない。(P213)

 

肉体労働者の危機

 

労働組合の危機

 

知識労働者のマネジメント

知識労働と知識労働者に関わる問題は、昨日ではなく京都明日の問題である。まったく新しい種類の課題である。(P223)

 

労働力の細分化

 

新たな期待

現代社会の特徴とすべきは、豊かさの増大ではなく期待の増大である。ということは、仕事を生産的なものにすることが、かつてないほどに重要になったということである。同時に、肉体労働者その心理的な不安定感ゆえに、知識労働者はその定かならざる地位のゆえに、仕事に心理的、社会的満足を求めるようになったということである。仕事は面白いものでなくともよい。しかし、成果をあげさせるものでなければなくなった。(P228)

 

 

16.仕事と働くことと働く人たち

この人類にとって最大の関心事だった仕事が、いよいよ産業革命において経済と社会の中心に位置づけられた。この200年間の間、経済理論と社会理論は仕事を中心とすることになった。マルクス社会主義は、生産手段すなわち仕事の道具の支配が社会のありようを定めるとした。正統派経済学もまた、仕事を中心に据えた。(P229)

 いかに仕事が人にとって中心的なものになったにせよ、仕事についての組織だった研究が始められたのは、19世紀末になってからに過ぎなかった。
 フレデリック・W・テイラーこそ、仕事が体系的な観察と研究に値するものとした最初の人だった。そして何よりも、20世紀において先進国における一般人の生活をかっての富者よりも高い水準にまで引き上げることになった豊かさの増大は、このテラーのサイエンティフィック・マネジメント(科学的管理法)のお陰だった。

‥‥‥‥だが彼の死後60年というのに、彼の基礎の上に付け加えられたものは、今日まだあまり多くない。(P230)

 

働くことの5つの側面

 働くことすなわち労働は、‥‥‥‥論理ではない。いくつかの力学を持ち、いくつかの側面を持つ(P233)

 

機械の設計と人の設計

第一に、生理的な側面がある。人は機械ではなく、機械のように働きもしない。(P234)

 

苦しみか喜びか

第二に、心理的な側面がある‥‥‥‥辛苦となる一方において、祝福ともなる。

(P235-236)

 

絆としての仕事

第三に、社会的な側面がある。組織社会では、働くことが人と社会をつなぐ主たる絆である。(P236)

 

経済的な側面

第四に、仕事とは設計の質である。仕事は分業が始まって以来、経済的な側面を持つようになった。自給自足経済から交換経済に移行して以来、仕事は人と人の間に経済的な関係と経済的な衝突をもたらした。この衝突に解決の道はない。しかも避けることが出来ない。(P238)

 古典派経済学者のように、資本部分(資本ファンド)と賃金部分(賃金ファンド)との間に対立はないと論じても意味はない。(P239)

 個々の働く者にとっては関係ないことである。彼らにとっては、そこには現実かつ直接の対立が存在する。(P240)

 

生計の為の仕事と賃金の為の仕事

生計としての賃金[賃金ファンド]とコストとしての賃金[資本ファンド]の間には、更に根本的ともいうべき対立がある。生計の質としての賃金は、安定的、継続的であって、かつ一家の生計費、欲求、社会的地位に見合っていなければならない。

 これに対しコストとしての賃金は、産業及び企業の生産性に見合っていなければならない。柔軟であって市場に対応できなければならない。‥‥‥‥働く者の必要性や期待とは関係なく、顧客によって決めなければならない。ここにも、解決するどころか緩和することも難しい対立がある。

 これらの対立を解消できた社会はない。(P241)

 資本の提供者が企業を所有するという資本主義と、政府が企業を所有するという社会主義の二つにとって代わるものが従業員所有である。感銘するほどのものではないが、既に歴史だけは長い。オタ・シクによる「経済の自由」など、最近再び真剣に提案されている。‥‥‥‥従業員所有制度は業績好調の時にしか有効に働かないという事である。つまり、業績の良い企業においてうまくいく。(P242)

 いずれにせよ。働くものにとって重要なのは、利益の配分ではなく雇用の安定である。

 資本部分と賃金部分との対立は、市場経済、計画経済のいずれであろうと、私有・国有・従業員所有であろうと避けれことは出来ない。(P242)

 

権力に関わる側面

第五に、政治的な側面がある。集団内、特に組織内で働くことには権力関係が伴う。(P244)

 

分配の関わる側面

あらゆる組織に、第六の側面として果実の分配がある。企業、政府機関、大学、病院のいずれであれ、組織の中の人間に経時的な報酬を分配するには、決定権を持つ中央集権の権力が必要である。

 現代の組織が社会の機関であって、組織の外の世界に満足をもたらす為に存在するという基本的な事実のゆえに権力は必要である。(P245)

 

支配的な側面はない

 これまでのアプローチの根本的な誤りは、これらの側面のいずれか一つを唯一のものとしたところにあった。

 マルクスを始めとする多くの経済学者は、経済的側面が他のすべての側面を支配するとした。経済関係さえ変えれば、疎外の問題もなくなるとした。(P247)

 これに対しエルトン・メイヨーは、職場における人間関係、つまり心理的側面と社会的側面が支配的な側縁であるとした。‥‥‥‥しかい、メイヨーとその人間関係学派は、こうして労働の経済的側面と権力的側面を無視した。

 これら労働の各側面は互いに複雑に絡み合っている。

 心理学の父エブラハム・マズローは、人の欲求は階段状であるとした。欲求のそれぞれは、満たされるにつれて重要度を減少させ。次の段階の欲求の重要度を増大させてゆく。‥‥‥‥欲求は固定したものではなく変化するものであるとの洞察だった。(P248)

 フレデリック・ハーツバーグの言葉で言うなら、経済的な報酬は動機付け要因から衛生要因へと変わる。‥‥‥‥欲求は満足させられるほど動機づけとしての力は弱まる。しかし、その不足は不満を増大させ、やる気を失わせる力を強める。(P249)

 我々は、これら働くことの各側面とそれらの関係について、今日以上に知らなければならない。我々が相手にしているものは分析困難な形態である。

 だが我々は、今日マネジメントしなければならない。仕事を生産的なものとする為に必要な事を知らなければならない。もはやこの200年間やって来たことだけでは不十分である。新しいアプローチと方法論を早急に手にしなければならない。(P350)

 

 

17.仕事を生産的なものにする ━ 仕事の分析とプロセスの統合

 スキルや知識は、仕事側ではなく労働側の問題であることを認識しておかなければならない。(P251)

 人をして成果を上げさせるための第一歩は、仕事を生産的なものにすることである。

 仕事を生産的なものにするには、四つのものが必要である。

仕事の分析

プロセスへの統合

管理

ツール(P252-253)

 

仕事の分析

 

プロセスとしての生産の管理

 

個別生産

 

リジッド大量生産とフレキシブル大量生産

 

プロセス生産

 

生産の原理の併用

 

 

18.仕事を生産的なものにする ━ 管理手段とツール

仕事とはプロセスである。

(1)プロセスの方向性

(2)プロセスの質

(3)プロセスの産出量

(4)プロセスの保守と安全

(5)プロセスの効率

あらゆる仕事がそれぞれの管理を必要とする。標準な(P266)(P266)

 

管理の共通条件

(1)仕事のプロセスを管理することは、仕事を管理することであって働く人を管理することではない。管理とは、人の道具(ツール)であって人の主人公となるべきものでない。しかも、それは働くことの妨げとなってはならない。(P267)

(2)管理手段は予め設定しておかなければならない。(P267)

(3)管理は、仕事の成果からのフィードバックによって行わなければならない。(P269)

 

定型と例外

管理手段が管理できるのは、定型的なプロセスだけである。管理は例外を見分けなければならないが、それらの例外に対処する事は出来ない。

 

定型的パターン

 

仕事のツール

 

ツールの役割

ツールは、仕事と働くことと橋渡しするものであるということである。ツールは仕事の為のものである。同時に、働くことの為のものである。(P277)

 

肉体労働を超えて

 

 

19.働く人と働くことのマネジメント

 第二次世界大戦の頃に人間関係学派の研究成果が発表されて以降、動機付け、自己実現、産業心理学、産業社会学、人間関係についての研究と文献が花盛りとなった。

 それらのうち最も読まれ最も引用されているのが、ダグラス・マクレガーの著書「企業の人間的側面」で紹介したX理論とY理論である。

 X理論と名付けられた昔からある見方は、人は怠惰で仕事を嫌うとする(P285) 

これに対しY理論と名付けらえた見方は、人は働く欲求を持ち、仕事を通じて自己実現と責任を欲するとする。

事実、Y理論を指示すべき論拠は豊富にある。組織や上司に反感を持つ者を含め、ほとんどあらゆる者が仕事が好きになることを欲している。仕事を通じて自己実現を欲している。(P286)

 もちろん現実は、マクレガーの追随者が考えているほど単純ではない。そもそもY理論だけでは不十分である。

 のちに私がY理論と名付け‥‥‥‥たものについて、私が初めて論じた時、‥‥‥‥働くものに責任を持たせ成果を上げさせることは、彼らとマネジメントの双方に重い要求をつきつけることになると指摘した。マクレガーは‥‥‥‥当然のこととして同じことを考えていた。(P287)

 

マズローの批判

エイブラハム・H・マズローは、Y理論を指示しつつも、Y理論は私たちがみていたものよりも更に厳しいものを要求すると指摘した。

『自己実現の経営』において、」責任と自己実現は、心身ともによほど強いものでなければ耐えられない重荷を課すことになると主張した。Y理論が要求する自律と責任に耐えられない弱者に対して、私とマクレガーはきつく当たり過ぎているとも言った。(P288)

 

 動機にせよ、衝動にせよ、その元となるものは常に人の外にある。‥‥‥‥我々は成果を上げる方法を身につけることことも出来れば、成果をあげられない方法を身につけることも出来る。この事実もまた、X理論やY理論という人に関わる定義では説明できない事である。(P289)

 

アメとムチ

 従って、そもそもX理論とY理論の比較には意味がない。マネジメントが考えるべきは‥‥‥‥いかに働く人と働くことをマネジメントするかである。(P289)

 アメとムチによるマネジメント、すなわちX理論によるマネジメントはもはや無効である。(P290)

 豊かになれば多少の報酬増では満足できない。さらに多くを期待する。(P291)

 そもそも組織は再配分機関である。‥‥‥‥経済的な報酬というアメに依存することは、その報酬を手にする人間だけでなく、他の人間も疎外する危険がある。働くものを分裂させ、多くのものを組織とそのマネジメントに対立させる立場に追いやる。(P292)

 

アメとムチに代わるもの

 産業心理学は、そのほとんどがY理論への忠誠を称する。自己実現、創造性、人格をいう。だが、中身の実体は心理操作による支配である。その前提たるやX理論のものである。人は病み、自らの面倒をみられない。

 マネジメントは、部下の心理の召使になることによって、逆に彼らのボスとしての支配を維持する。‥‥これが支配であることに変わりはない。(P202)

 心理学のいうところによれば、‥‥‥‥あらゆる人の性格的構造、心理的欲求、心理的問題を理解しなければならない。言い換えると、マネジメントは全知全能でなければならない。(P294)

 大勢の人間に万能のカリスマ性を求めるという事は、常軌を逸している。

 心理的専制を実践しようとしてはならない。(P295)

 代わるべきものを与えなければならない。そのような組織とは、‥‥Y理論とは関係なしに、そのような組織はすでに現実に存在する。そして、研究することが出来る。(P297)

 

 

20.成功物語

 働くことが、成果と自己実現を意味した時期や組織があった。その典型が、働く者全員が自らの大義への貢献を実感する事が出来た国家存亡の時だった。(P298)

 日本的経営は日本古来のものではない。それは1920年代から30年代にかけて企業用として発展してきたものである。その契機はとなったものが、1920年頃に始まったテイラーの科学的管理法の導入だった。

 日本でもインダストリアル・エンジニアは欧米と同じ仕事をしている。しかし、日本では現場と一体となって仕事をする。(P299)

 

禅と儒教

 これは、学ぶことの目的と本質が欧米とは異なるからである。‥‥‥‥ところが、日本の考えは禅方式とでも呼ぶべきものである。‥‥‥‥彼らは、自らの所属と専門を超えて全体を見ることが出来る。‥‥‥‥その為自らの位置と貢献を知ることが出来る。‥‥‥‥サークル活動での焦点は、常により良くである。新しいことを違った方法で行うことである。(P301)

 この継続訓練へのコミットがあるからこそ、日本では変化とイノベーション‥‥‥‥を進んで受け入れる土壌が出来上がっている。(P302)

 日本のシステムでは会社を辞めることに伴う恐怖は大きい。‥‥‥‥30過ぎでの就職は事実上不可能となっている。‥‥‥‥会社そのものの倒産が恐怖となっている。‥‥‥‥所属する組織のためならば担当外のことまで行うようになっている。(P303)

 

労働コストの柔軟性

 日本の労働コストは柔軟である。

 一つの原因は臨時工の存在である。女性も臨時的な存在とみなされている。(P303)

 実は日本企業は‥‥‥‥レイオフを行なえる‥‥‥‥しかし、世帯主は除かれる。しわ寄せは余裕のある人にいく。日本の労働コストを柔軟にしているのは定年制である。‥‥‥‥しかし、その金額では平均寿命の延びによって70歳以上まで生きるようになった今日ではとても足りない。

 55歳を超えた人が大勢働いている。

 何が起こっているかは簡単である。‥‥‥‥多少の景気変動は乗り越える事は出来る。扶養すべき子供や親もいない。40歳だったころとは違う。(P394)

 

日本の慣行

 日本的経営では強力なリーダーを育てているようには見えない。凡庸なために選ばれ、波風を立てない小心者を育成する上ではうってつけに見える。

 日本ではほとんど解雇されない為、‥‥‥‥若い者の面倒を見、育てることがマネジメントの第一の責任にされている。‥‥‥‥放っておかれることはまずない。

 日本の組織では、‥‥‥‥組織全体の観点から考えることが期待されている。‥‥‥‥責任による参加である。(P305)

 

ツッイス方式の秘密

 [ドイツのカール・ツッイスの事例]

 

IBM物語

第三の成功物語がIBMである。

 

得られた教訓

これら三つの例はいずれも奇跡ではない。だが更に重要なこととして、いずれの例も万能薬ではない。(P313)

家族的マネジメント、参加型マネジメントなどの自称万能薬も含め、これまでの理論のほとんどは権限の組織化に焦点を合わせていた。これに対して、日本企業、ツァイスのアッペ、IBMのワトソンは、働くことのマネジメントの基盤として、責任の組織化を図っていた。

 

 

21.仕事のへの責任

 働くものが責任という重荷を負うには何が必要か。‥‥‥‥責任に応じてもらう為にマネジメントは何をしなければならないか。焦点は仕事に合わせなければならない。‥‥‥‥これまでの歴史を通じて、働く者への取り組みは、すべて仕事以外の要素に焦点を合わせてきた。(P315)

 

創造性への誤解

第一に、仕事を分析し、プロセス化し、管理手段に組み込み、ツールを設計することによって、仕事自体を生産的なものにすることなく、仕事に責任を持たせようとしても無駄である。単にマネジメントの無能を示す結果に終わる。

このことは、いわゆる創造性のスローガンに反する。人は束縛から解放されれば、専門化よりも優れた生産的な答えを出すとの考えは昔からある。‥‥‥‥我々の知る限り、正しい仕事の構成は直感で知りうるものではない。

(P316-317)

 

フィードバック情報

働く者に責任を持たせる為の第二条件は、成果についての情報をフィードバックすることである。責任を持つ為には自己管理が可能でなければならない。その為には、自らの成果についての情報が不可欠である。

 

継続学習

仕事に責任を持たせる為の第三の条件は、継続学習である。‥‥‥‥継続学習では、働く者は学んだことを活かして、自らの仕事ぶり、仲間の仕事ぶり、そして仕事の仕方を向上させようとする。

 更に継続学習によるならば、二つの問題を解決する事が出来る。一つがイノベーションへの抵抗をなくすことであり、もう一つが陳腐化する危険をなくすことである。(P330)

 知識労働に関わる集団は学習集団とならなければならない。(P321)

 

働く者の参画

 これら三つの条件、すなわち仕事を生産的なものにし、情報をフィードバックし、学習を継続させることは、働く者に対し、自らの仕事、集団、成果について責任を持たせるために基盤である。従って、それはマネジメントの責任であり、課題である。(P321)

 しかし、これら三つの条件すべてについて、実際に仕事をするもの自身が作業に参画しなければしなければならない。(P321)

 

明確な権限

 もう一つ必要なものがある。権限を明確にしておくことである。働く者としては、自分にはどこまで任せられているかを知らなければならない。

 更に、決定を行うものが誰であるかは事前に知らされていなければならない。さもなければ混乱に陥る。‥‥‥‥そのような明確な権限を持つ者を抜きにしては、誰も安心して仕事は出来ない。(P323)

 

職務責任

 しかし、仕事の基準を満たしつつ、仕事を遂行することの出来る職務を設計し、さらにそれらの職務を一つの職場コミュニティの仕事にまで統合する作業者集団というものを設計し、組織し、諸所の関係を定めることは、働く者自身とその作業者集団の責任であり、また責任でなければならない。(P344)

 仕事を生産的なものにする為に、創造性に期待することは夢想である。‥‥‥‥そもそも仕事とは、全体として把握すべきものである。(P325)

 作業者集団の設計に関して、最適解を得る唯一の方法が試行錯誤である。(P326)

 

職場コミュニティにおける責任

働く者に成果をあげさせるには、彼らの職場コミュニティ[従業員食堂・休暇の調整・レクリエーション活動等]についての実質的な責任を持たせる必要がある。(P327)

 

リーダーシップの発揮の機会

 それらの活動は、リーダーシップを発揮し、責任を持ち、認められ、学んでゆく良い機会である。(P327)

 彼らもまた、マネジメントとは何であり、マネジメント上の責任とはなんであるかを学ばざるを得なくなる。(P328)

 全員が自らをマネジメントの一員とみなし、マネジメントとしての責任を持つ組織を目指さなければならない。ここでいうマネジメントの責任とは、自らと自らの作業集団の仕事への責任、組織全体の成果への責任、職場コミュニティへの責任を指す。(P329)

 

 

22.雇用と所得

雇用と所得を失う恐れがある中では、仕事、作業集団、成果に責任を持つ事は出来ない。‥‥‥‥

責任の重荷を背負うには雇用と所得の保障がなければならない。

同時に、働く者には移動の自由がなければならない。‥‥‥‥

特に高学歴の知識労働者は、自らの知能とスキルによって最大の貢献を行える所へ動けなければならない。埋もれさせることは、社会とともに、本人にとっても退化を意味する。(P330)

 

雇用の保障と所得の安定

すなわち、働く者を社会の生産的な一員にする仕組みである。(P331)

 

レーヌ・プラン

 

再就職斡旋

雇用の保障と所得の安定の為には、再就職の為の斡旋活動が必要になる。(P333)

 

 

23.人こそ最大の資産

働く者に成果を上げさせるという課題を直視しない第一の、その主たる原因は、権限と権力の混同である。マネジメントは、肉体労働者からにせよ、知識労働者からにせよ、責任を持ちたいとの要求に対し、それを権限の放棄の要求と誤解して抵抗する。(P336)

 

分権化の教訓

今日あらゆるマネジメントが、分権制がトップマネジメントを強くすることを知っている。分権制によって、トップマネジメントは本来の仕事が出来るようになる。トップマネジメントの権限は分業制によって増大する。(P338)

 

マネジメントへの要求

分権制が自らに課すことになる高度の要求を恐れたのだった。

責任を持つ者はマネジメントに対し、高度の要求をする。有能たるべきを要求する。(P339)

マネジメントたる者は、人の強みを効果的たらしめるという責任を果たさなければならない。このことは、従来型の管理からリーダーシップへの転換を意味する。(P341)

 

人を管理する為の三つのアプローチ

(1)福祉的アプローチ

特に助けを必要とする人の役に立つことが出来る。

 

(2)人事管理的アプローチ

人事管理とは、雇用。特に大量の雇用に伴う活Pのすべてを体系的に遂行していくことである、すなわち、選考・採用・訓練・医療・安全・福利厚生・社員食堂その他である。(P345)

人事管理は衛生要因にすぎない。手を抜けば問題が起こる。

人事の仕事は支援的な活動である。(第42章参照)だがその多くは、職場コミュニティへの支援であるべきである。(P346)

 

(3)労務管理的アプローチ

人を費用あるいは脅威と見る労務的管理的アプローチである。‥‥‥‥それらの活動はマネジメントとは言えない。

人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。[ここまでの三つのアプローチ]いずれもが人の強みに焦点を合わせていない。

組織の機能は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することである。(P347)

 

人こそ最大の資産

  現実には、人のマネジメントについての従来のアプローチのhとんどが、人を資産としてではなく、問題・雑事・費用あるいは脅威として扱っている。(P341)

何よりも必要なことは実行である。

(1)仕事を生産的なものにしなければならない。

(2)働く者を資源として見なければならない

その為の一つの方法が、

「私や会社は、あなたの仕事の助けとなるものとして、何を行っているか」

「私や会社は、あなたの仕事の邪魔になるものとして、何を行っているか」

「私が上司として会社の為に最善を尽くせるようになる為に、あなたにはないが出来るか」

という簡単な問いを問うことである。(P349)

マネジメントは部下への見方を変えるようになる。部下を自らの資源としてみるだけでなく、自らを部下の為の資源として見るようになる。(P350)

 

適材適所

(3)強みが成果に結びつくよう人を配置しなければならない。

 資源の最適活用を図ることこそ、マネジメントたる者の仕事である。

 仕事が出来ないものが駄目な人間というわけではない。間違った場所におかれているだけである。‥‥‥‥言葉の遊びではない、厳しくて難しい。

マネジメントを人の管理から人をリードすることへと進ませることは出来る。(P352)

 

 

 

 

社会に与えるインパクトの処理と社会への貢献

 

 社会的責任は、マネジメントにとってマネジメントにとって第三の役割である。あらゆる組織のマネジメントが、自らの組織がもたらす副産物、すなわち自らの本業が人や自然環境や社会に与えるインパクトについて責任を持つ。同時にあらゆるマネジメントが、自らの原因でない社会的な問題の発生を予期し、その解決に貢献することが期待される。

 

24.マネジメントと社会

 企業の社会的責任については、一世紀前から論じられている。事実、マネジメントに関する文献には、必ず社会的責任についての章がある。

かって企業の社会的責任について議論は、三つの分野でなされていた。

第一が、私的な倫理と公的な倫理に関わる問題だった。組織を預かるものはどこまで個人として倫理に従うべきか。組織に対する責任は、どこまで個人として非倫理的な行動を許すか、あるいは強制するか。

第二が働く者に対する責任に関する問題だった。

第三が地域社会への貢献という意味での責任に関わる問題だった。

これらの問題は、企業の社会的責任ではなく、企業人の社会的責任に関わる問題だった。

 むしろそのはるか前のリーダーたちの方が、企業の社会的責任を正面から捉えていた。日本の渋沢栄一であり、第一次世界大戦前のドイツのヴェルタ―・ラーテナウだった。しかし、その渋沢とラーテナウにしても、主たる関心は企業活動の限界の方にあった。

 今日、社会的責任を論ずるとき、重点はまったく別の所にある。今日この頃では、人種差別などの社会問題や、自然環境の保全などの環境問題に対して、企業がなしうる貢献に重点が置かれている。(P355)

 今日の社会的責任論は、もはや企業の責任の限界を論じない。社会の良心として、社会的な問題のすべてに責任を持つことを要求する。

 

原因は何か

マネジメントに対する過信である。(P358)

 

政府に対する幻滅

今日では、政府の手に負えなくなったそれらの問題の解決を、政府以外の組織、とりわけ企業に期待するようになった。(P359)

 

社会的リーダーの地位

 社会的責任に関わる企業への要求の根底にあるものは、企業のマネジメントが社会のリーダー的な階層として地位を受け継いだとの認識である。

 

三つのケース

社会的責任の問題は別の所にある。それは、良き意図、尊敬すべき行為、高度の責任感でさえ、時として問題を起こすところにある。三つの教訓とすべきケース(P360)

 

ユニオン・カーバイド物語

スイフト・デ・アルヘンティーナの失敗

クエーカー教徒の良心

 

 社会的責任についての要求は、多くの本や論文や講演がいうほどには簡単ではない。しかし、シカゴ大学のミルトン・フリードマンが言うように社会的責任を無視するわけにはいかない。確かに企業が経済的な機関であり、経済上の課題にのみ取り組むべきであるとのフリードマン説はもっともである。社会的責任には、企業の経済的機能の遂行を損ない、従って社会全体を損なう危険がある。権限のない領域において、企業のマネジメントに権力を行使させるという更に大きな危険もある。

 しかし、社会的責任を回避できないこともあきらかである。‥‥‥‥現代社会には、マネジメント以外にリーダー的階層が存在しないからである。(P367)

 

 

25.社会に与えるインパクトの処理と社会への貢献

社会的責任の問題は、企業、病院、大学にとって二つの領域で生ずる。

(1)自らの活動が社会に与えるインパクトから生ずる。

(2)自らの活動とは関わりなく社会自体の問題として生ずる。

 

現代の組織は、社会に貢献する為に存在する。それは社会の中に存在する。(P369)

 

自らのインパクトへの責任

故意であろうとなかろうと、自らが社会に与えるインパクトについては責任がある。これが第一の原則である。組織が社会に与えるインパクトには、いかなる疑いの余地もなく、その組織のマネジメントに責任がある。それはマネジメントが対処すべき問題である。(P371)

 

インパクトを予期する

従って、マネジメントにとっての第一の仕事は、冷静かつ現実的に自らが社会に及ぼすインパクトを予期することにある。(P374)

このことはやさしそうに見える。だが実際には極めて厳しい。(P374)

 

テクノロジー・モニタリングの必要性

 

インパクトをいかに処理するか

 

規制すべき時

社会へのインパクトは、その除去を事業場の機会に転じなければならない。しかし、多く場合は不可能である。‥‥‥‥規制、つまり何らかの公権力の行使によってのみ実現される。(P383)

 

トレードオフの必要性

社会的インパクトの問題を解決するには、トレードオフが必要である。‥‥‥‥そこで費用と効果のバランスを得る為の意思決定が飛鳥となる。(P384)

 

機会としての社会の問題

 他方、社会に存在する諸々の問題は、社会の機能不全であり、社会を退化させる病である。それは、組織、特に企業のマネジメントにとっては挑戦である。機会の源泉である。社会の問題の解決を事業上の機会に転換することによって自らの利益とすることこそ企業の機能であり、企業以外の組織の機能で[も]ある。

 変化をイノベーション‥‥‥‥イノベーションを技術に特有のものとしてはならない。(P386)

社会の問題の解決すなわち社会的イノベーションにある。(P387)

 

社会の病

社会の問題は、事業上の機会に転換すればもはや問題ではない。しかしそうできない問題は、社会にとって、たとえ進行性とまではいかなくても病いとなる。(P391)

 

 

26.社会的責任の限界

従って、社会的責任の最大の限界は、マネジメントが仕える組織の本業における成果に支障をきたすことである。(P395)

 

能力の限界

 組織、特に企業は、自らが与える社会的インパクトについて責任を果たすうえで必要な能力は、すべて身につけていなかればならない。しかし、それ以外の社会的責任の分野においては、行動の権利と義務は、自らに固有の能力によって限定される。特にあらゆる組織が、自らの価値体系に合致しない課題に取り組みことは避けなければならない。(第58章参照)(P308)

 

権限の限界

 社会的責任に関わる最も重要な限界は、権限の限界である。(P401)

 企業は本来の事業、すなわち経済的な領域に専念せよとのミルトン・フリードマンの考えは、社会的責任の否定ではない。それは自由社会における唯一の首尾一貫した主張といえるものである。(第24章参照)

 これに対する他のいかなる主張も、自由社会を危うくするものである。

 この観点からするならば、今日の企業批判は、大企業に対し、彼らの主たることを要求しているに等しい。(P402)

 しかし。あらゆる社会的責任を忌避するというミルトン・フリードマンの主張も成立しがたい。‥‥‥‥組織たるものは、自らの為にも、社会とコミュニティの問題に関心を持ち、自らの本業を越えた責任を負わざるを得ない。(P404)

 [企業は]自らの経済力をもって、自らの価値観を社会に押し付けることも許されない。(P405)

ノーというべき時

正当ならざる権力の行使を求める社会的責任の要求を受け入れてはならない。(P406)

すなわち、最大の社会的責任とは、自らに特有の機能を果たすことである。(P408)

 

 

27.企業と政府の関係

 組織、特に企業のマネジメントにとって、社会的責任に関わる重大な問題の一つとして政府との関係がある。しかるにその関係は、マネジメントの社会的責任が論じられるときに触れられることはあまりない。

企業と政府の関係は社会の問題である。‥‥‥‥しかしそのいずれにおいても、ルールは欠落し、理解は不足したままである。(P409)

 

いくつかのモデル

 我々の教科書は、今日に至るも、資本主義経済すなわち市場経済における企業と政府の関係を表すモデルとして、自由放任主義(レッセ・フェール)を説いている。

 しかし、自由放任主義とは、第一に、経済理論のモデルであって政治理論や政府活動のモデルではない。

 第二に、自由放任主義は経済理論としても、イギリスにおいて19世紀中頃のごく短い期間に行われたに過ぎなかっ た。(P411)

企業と政府の関係を律してきたのは、自由放任主義ではなかった。別の二つの政治モデルだった。重商主義(マーカンティリズム)と立憲主義(コンスティテューショナリズム)だった。

 17世紀の重商主義では、企業は国家主権の独立と生存を守るための軍事力を賄うべき存在とさせた。アダム・スミスはこの理論を否定したが、‥‥‥‥(P412)

 一方、19世紀に主としてアメリカで発達した立憲主義モデルでは、基本的に政府は企業と対立関係にあるとする。両者の関係は、行政によってではなく、法律によって規制されるべきものとする。両者の関係は不即不離である。(P413)

 いずれも、「企業活動は企業人に任せきってしまうにはあまりに重要である」とする。しかし、重商主義が企業を指導、誘導、補助するのに対し、立憲主義は企業は「何々するなかれ」という。反トラスト法、規制機関、刑事告発を多用する。(P413-414)

 

新しい現実

 今日、立憲主義も重商主義も陳腐化した。もはやいずれも政府や企業に指針を与えなくなった。解決を迫られる問題を扱えなくなった。

 それは、

(1)混合経済の発展

国防以外の分野でも、公と民、官と営利の区別のつかないものはたくさんある。(P417)

例えば、環境問題がある。(P418)

(2)グローバル企業の発展

現実に世界を動かし、経済活動とその結果に影響を与えているものはグローバル企業である。重商主義にとっては、政治と経済の分離など起こり得ない事である。‥‥‥‥といって、立憲主義のモデルがグローバル企業の問題に対処できる訳ではない。(P419)

(3)社会の多元化

政府が無数の組織の一つにすぎなくなったことだった。そのような社会では、政府以外の組織のリーダー、特に企業のマネジメントに社会的責任が生じる。(P419)

(4)マネジメントの台頭

 オーナー兼企業家に代わるものとしてのマネジメントの台頭だった。伝統的な二つのモデルは、いずれもオーナーたる企業人を一方の主役とする。

 この事態の進展が、政府と企業の間の昔からの境界線をなくした。すなわち、重商主義モデルと立憲主義モデルの前提を形骸化した。

だが、解決策はまだ見えない。(P420)

 

ガイドライン

 健全なる社会とは多様な文化の複合体である。(P423)

  企業とそのマネジメントが心得るべきことが、「知りながら害をなすな」である。(第28章参照)

 いみじくも、企業と政府の関係に関わるある一つの大きな問題の解決に、これら「企業の自立性」と「政府の成果」という二つのガイドラインが大きな意味を持つ。(P424)

 

グローバル企業と対政府関係

  ここにおいて必要とされていることが、こちらも新しく登場したグローバル経済と、国民国家の政治主権が平和裏に共存することが出来る関係を構築することである。

 我々が必要としているものは、新しいモデルである。

 

 

28.プロフェッショナルの倫理  ━知りながら害をなすな━

 これまで、企業倫理や企業人の倫理については、数えきれないほど説かれ書かれてきた。だが、それらのほとんどは、何ら企業と関係がなく、その倫理ともほとんど関係がない。(P426)

 

リーダー的地位にあるグループの一員としての責任

具体的には何か。‥‥‥‥本質的にはプロフェッショナルであるということである。(P429)

 

知りながら害をなすな

 プロフェッショナルの最大の責任は、2500年前のギリシャの名医ヒポクラテスの誓いの中にはっきり明示されている「知りながら害をなすな」である。(P430)

 「知りながら害をなすな」こそ、プロとしての倫理の基本であり、社会的責任の基本である。

 特にアメリカ企業のマネジメントは、次の問題について「知りながら害をなすな」のルールを犯している。(P431)

(1)経営者の超高額配当

アメリカの代表的な企業をみると、‥‥‥‥すなわち工員と工場長との所得格差は1対4にすぎない。(P432)

致命的な事は、不平等化の錯覚である。(P433)

(2)足枷としての諸手当

退職金・ボーナス・ストックオプションはすべて報酬である。‥‥‥‥働く者を組織に縛る働きをしている。それらは、同じ組織のもとにとどまり続けることを条件に与えられる。組織を辞めることには非常な罰が伴う。(P433)

 そのような足枷は企業の力を強くしない。それどころか害をなす。

 すでに彼らが稼いだものである。‥‥‥‥制限なく彼らに渡すべきである。(P434)

(3)利益についての説明

 彼らは企業の目的は利益の極大化にあると説明している。

利益を正当化し、利益の存在を説明し、利益の機能について述べている言葉は何一つ見られない。

 そこに見られるものは、利潤動機という不特定多数の資本家の欲望だけである。‥‥‥‥利益こそ経済と社会にとって欠くべからざるものである。(P435)

 

 多元的な社会では、公的な善に対する責任が常に問題の中心となる。今日の組織社会も例外としえない。(P436)

 まさに、自立性と責任という、マネジメントに特有な私的な機能と公的な特性との緊張関係にこそ、組織社会に特有の倫理に関する問題の本質がある。

 この平凡さと自己規律が。「知りながら害をなすな」の原則をマネジメントの倫理すなわち責任の倫理にとってふさわしいものとする。(P437)

 

以上